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私はマリージョア・ブロンテ。
ブロンテ侯爵家の長女です。
突然ですが、私はもう耐えられません。
いえ、もうずいぶん長いこと我慢してきたのですよ。
かれこれ十年です。
私は今16歳ですから、人生の大半をこの問題の解決に費やしてきたことになります。
ああ、だというのに……!
私は掴んでいた自室のドアノブを回し、そっとドアを閉めました。
今見たことをなかったことにするのです。
私は何も見ていません。
天蓋付きのベッドの枠に、体中にロープを這わせてぶら下がる半裸の従者の姿など!
ああ、私はどうすればいいのでしょう!
ヤツは恥ずかしながら私の従者なのです。
出会いは十年前に遡ります。
そうです。私の地獄の十年が始まった年です。
6歳のある春の日、お父様が彼を家に連れて帰ってきました。
お父様のお兄様、つまり叔父様の忘れ形見だと言って。
彼と私は従兄弟というわけです。
しかし、叔父様は平民の女性と駆け落ちして侯爵家から勘当された身。その息子である彼は、たとえ侯爵家の血を引こうとも平民という扱いです。
うちには既に跡取りの弟がおりましたから、彼は早々に私の従者となったのです。
彼も最初は普通の男の子でした。
いえ、ある意味普通ではなかったかもしれません。
なぜなら、外見が異常に美しかったからです。
彼はサラサラの白金色の髪に、透き通るような白い肌、グリーンの目をしていました。
初めて彼を見たときは、開いた口がなかなか塞がらなかったものです。
どこぞの王子様か、天使様がやってこられたのかと。
歳は私の1つ上でした。
歳も近いし、お友達になれるだろうと思って、私は舞い上がりました。
その頃の私にはお友達がおりませんでしたから。
いえ、今でもおりませんけれど。あ、取り巻きはたくさんおりますわ!
だというのに、彼はいつも不機嫌で、私が話しかけても無視するのです。
好きな食べ物はなに?
この本一緒に読まない?
美味しいケーキがあるの!
こうやって、何度も何度も話しかけましたのに。
私の期待は粉々に砕け散りました。
そのうち、私は彼に近づかなくなりました。
そうすると、いよいよ接点がなくなるわけです。
元々彼の方も私を避けていたので。
ひと月くらいはその状態が続いたでしょうか。
彼とはもう仲良くなれないのでしょう、と私は諦めました。
しかし、事態は私の予想外の方向に向かっていったのです!
ああ、こんなこと、誰か予想できたでしょう!
それは激しい雨の日でした。
屋敷の前にけたたましい音を立てて一台の馬車が止まりました。
黒い外套を着た濡れネズミの男たちが、我が家になだれ込んできます。
何事だ!と、お父様が寝間着姿で慌てて対応しました。
そう、そうでした。彼らの訪問は、もう皆が眠りにつこうとしていた夜のことでした。
強盗か、と使用人たちが警戒していると、一人の男が外套のフードを外して言いました。
「緊急なんだ、息がない!」
その男の顔を見て、皆驚きました。
彼は有力貴族として我が家とも繋がりの深いマコノヒー伯爵その人だったからです。ああ、なんて失礼な態度をとってしまったのでしょう。彼は強盗なんかじゃ、もちろん、ありません!
そして、マコノヒー伯爵が大事そうに抱えたブランケットの中を見て、私達はさらに驚きます。
彼でした。私の従者で、従兄弟の……
そうだ、彼の名前をまだ言っていませんでしたね。
彼の名前はヒース。
そのヒースが、ずぶ濡れの青白い顔で、ブランケットに包まれていたのです!
「すまない。本当に。私を庇って崖から落ちたのだ……」
マコノヒー伯爵が打ちのめされたようにうめきます。
ヒースは数日前から、マコノヒー伯爵のもとにいる老齢の執事に付いて、従者修行を行っていました。
我が家には年若い使用人しかおりませんでしたから。
皇太子殿下の婚約者である私の従者として恥ずかしくない教育を施すには、ベテランの執事に学ぶ必要があったのです。
その日は、従者修行が一旦終わって、うちに帰ってくる日だったのです。
帰宅するという知らせはもらっていたので、皆で到着を待っていたのですが、あまりにも遅かったので、今日はもう帰ってこないだろうと就寝の途についたというわけです。
雨も降っていたことですし、どこかで足止めをくっているのだろうと。
しかし実際は……
「盗賊に襲われたのだ。我らを崖際に追い込み、やつらは殴りかかってきた! 幸い、剣を振るわれることはなかったが……ああ、慈悲からではない。あるものか! やつらは戦利品となる貴族服に傷を付けたくなかったにすぎん! 咄嗟に避けようとしたのだが、この子が、ヒースが前に出て、やつらを切り殺したのだ! 敵は3人だった。2人は倒した。1人は傷を負いながらも私に突進してきた。再びヒースが立ち向かい……ああ、体格の差のなんと呪わしいことか! やつは巨体に物を言わせて、ヒースを崖から弾き落としてしまった。一瞬の隙を見て、私はやつにトドメを差した。すぐにヒースを助けに崖を降りた。しかし………」
ブランケットの中のヒースは、いつにもまして透き通るような白い肌をしていました。そのまま空気の中に溶けてしまうのではないかと思うほどに。
街から医者が駆けつけるには、まだまだ時間がかかります。それに加え、外はひどい嵐です。医者はこちらに来ることができるでしょうか。
皆、もう駄目だと諦めかけていました。
しかし、奇跡が起きたのです。ええ、あれはまさしく奇跡としか言いようがありません!
ヒースは一晩で、いったい何度私達を驚かせば気が済むのでしょう!
ヒースはケホケホと咳をして、ゆっくりと目を開けました。
ああ、ヒース!よかった!
私はたまらず彼に駆け寄りました。
彼のグリーンの目が、しっかりと私を見ました。
その目があまりにきれいで、心臓が大きく跳ねたのを覚えています。
この屋敷に来て一ヶ月、彼が私をそんなふうにまっすぐに見てくれたことは一度もなかったのです。
彼は言いました。
「あれ……マリージョア・ブロンテ?」
名前を呼んでくれたのも初めてです。
「ええ、そうよ! ヒース、大丈夫なの?」
「あれ、俺、頭おかしくなった? なんで"アオコイ"の悪役令嬢が目の前にいるんだ?」
「あ、あくやくれいじょう……? あくやく……悪役、ですって!?」
その瞬間、カッと頭に血が登りました。
悪役令嬢ですって?
なんですか、そのいかにも悪そうな令嬢は!
未だかつて、このような暴言を吐かれたことはあとにも先にも、この時しかありません。
やっぱり彼は私が嫌いらしいです。それも、ものすごく。
でなければ、さっきまで死にかけていた人の第一声が暴言であるはずがないのです!
そしてこの私の考察は、そのあとの彼の行動によって裏付けされることになります。
彼、ヒースは死にかけた次の日から、私にべったりと貼り付くようになりました。
従者なのだから当たり前ですって?
とんでもない!
お部屋や食堂や庭ならいざ知らず、トイレやお風呂まで付いてこようとする従者がどこにいますか!
間違えないでください、彼は男の子です。
その当時、彼はまだ7歳で、大人たちは微笑ましそうに彼を放置しました。
6歳でもレディな私は、プライドとか羞恥心とか、そういうものをごりごりと削られていきました。
この頃、私の頭の後ろに小さなハゲができていたのは、きっとストレスからでしょう。
彼は一言もしゃべりもせず、無表情に、ただ私の後ろをひっついて歩きます。
そして、私の一挙手一投足をじっと見つめてくるのです。
すごく不気味でした………
これが嫌がらせでなく、何だというのです!
そんなに私が嫌いですか!
それはまだいいのです。
しばらくして、彼は私に喋りかけるようになりました。よかったですね、って? いいえ、よくありません。その内容がいけません。
「ぶって」
鈴の音のような声で彼にそう言われたとき、何を言われているのかわかりませんでした。
しかし、彼はどこからか馬用のムチを持ってきて、言うのです。
「これでぼくを打って」
ゾッとしました。
彼は無表情に、無垢な目をしてこれを言うのです。
もちろん私は逃げました。自分の部屋に。しっかり鍵もかけました。
そして、クローゼットの中に隠れました。
しかし、
ヤツは合鍵を持っていたのです。
音もなく入ってきて、私が隠れたクローゼットをギィと開けました。
「打つのが嫌なら、縛る?」
そう言って、彼はロープを差し出してきました。
私は人生で初めて、気絶というものを経験しました。
それからというもの、彼は隙あらば、自分を害してと私に要求してきました。
彼はいつもムチとロープを腰に携えていました。
私は嫌で嫌で、屋敷の中を逃げ回りました。
そういえば、彼は決して血が流れるような害し方は要求してきません。
あくまでソフトな……あれ、ソフトってなんだろう。
とにかくヒースは普通じゃありません。
ああ、きっと。崖から落ち、頭を打ったことが原因でしょう。彼の人格は変わってしまった。打ちどころが悪かったのね。
こうして十年、来る日も来る日も、私はヒースの要求を拒み続けました。
15歳を過ぎたあたりから、要求がエスカレートしました。
ムチが木刀になりました。
私の部屋に、よくわからない三角の尖った置物? が置かれました。
ある日ヒースは、両手両足を縛って、目隠しをし、さるぐつわをはめて、その上に座っていました。
胸にはこう書かれた紙が貼られていました。
【放置プレイですね。わかります】
全然わかりません。
そして今日、ヒースは私の天蓋付きのベッドの枠に、体中にロープを這わせて半裸でぶら下がっていました。
私にどうしろと?
絶望です。
私はついに、取り巻きの一人に相談することに決めました。
もう自分一人で抱えきれる問題ではなくなっていたのです。
「ねぇ、ジェシカ。これはお友達のお友達のお友達の知り合いの話なのだけれど」
「はい」
「本当に、お友達のお友達のお友達の知り合いの話よ」
「ええ、お友達のお友達のお友達のお話ですね」
「いえ、お友達のお友達の……ええと、とにかくね、彼女が困っているの。なんでも、男の人に、その、ムチとかで、自分を打ってほしいと頼まれるそうなの。どういうことかしら?」
「マリージョア様。それは"M男"ですね」
「えむ、おー?」
「M男です、マリージョア様。人から虐げられることで興奮や快感を覚えるという、性的嗜好をお持ちの方のことです。それも、お聞きしたところ、その方はドがつくM男ですね」
「まぁ、そんな方が!」
「ええ、世の中には変わった方がたくさんおられますからね」
「すごいわジェシカ! 私と同い年なのに、色々なことを知っているのね!」
「まぁ、私も同類ですから」
「え?」
「いえ、なんでも」
「そ、そう……? それで、彼の要求を止めるためにはどうすればいいのかしら? いえ、あくまでも、お友達のお友達のお友達の知り合いにアドバイスとして」
「Mの要求を止めることはできません。それは彼らにとって死を意味します。与えられる痛みはすなわち生きている証!」
「……ん?」
「マリージョア様はその方に死ねと!?」
「そ、そんな……では、どうすればいいの」
「どうにもできません」
私は気づきました。
ジェシカが同類と言っていた意味に。
彼女も、そう、なのですね……
だったら、
「じゃ、じゃあ、ジェシカがされて嫌なことは何かしら?」
「優しくされることですね」
そう言った瞬間、しまった、そんな顔をジェシカはしました。
私の勝ちです。
私は一目散にその場を退出しました。
ヒースはドMという人種で、ひどいことをされ、虐げられることを望んでいる。
ひどいことって、つまり叩いたり、蹴ったりということでしょう?
あ、そういえば、放置プレイがどうとか言ってたわ。
放置されることも喜びなのね!
すごいわ、今日の私、冴え渡っている!
では、どうしてヒースが私にそれを求めているのか。
それはすぐに思い当たりました。
私は社交界で、"毒バラ姫"と呼ばれている。らしいです。
私のドリルに巻いた黒髪と黒目、大好きな赤いドレスと口紅は、どうやら私にきつい印象を与えるようで、さらに緊張すると出てしまう毒舌も相まって、そんなふうに呼ばれるに至っています。
これが、私にお友達がいない理由です。
ヒースにはたぶん、私がひどい人間に見えているのでしょうね。人を嬉々としていじめるような……
だから、私に白羽の矢を立てた。私ならきっといじめてくれる。Mの欲望を満たしてくれると。
悲しいです。
けれど、ジェシカのおかげでドMのヒースを退治する方法がわかりましたわ! そう、
"ドMは優しくされることが嫌い"
ならば!
私が変われば良いのです!
ヒースが望むのとは真逆の私に!
めざすは、優しさの化身!……のような印象をまとう私です!
そうして、ムチを与えずアメを。ひたすらアメを投入するのです! 彼にとってはその優しさこそが毒となるのですから。
そうしてそれを続ければ、いずれヒースも私に興味を無くし、新たに虐めてくれそうな相手を探し始めることでしょう。
そうと決まれば、私は今から、ヒースにひたすら優しくします!
翌日………
朝です。
いつも通りなら、ヒースが私を起こしに来る頃です。
あ、来ましたわ!
ヒースは私の布団を取り、うやうやしくムチを差し出してきます。
「起き抜けに一発……」
そう言うヒースの手から、私はムチを取り上げました。
ヒースがびっくりした顔で私を見ます。
そして、期待に満ち溢れた顔をします。
これから私が、ムチで叩いてくれると思っているのでしょう。やっとその気になってくれたと。
ですが、その期待は砕かせていただきますわ。
私はムチをベッドに置き、ヒースの手を握りました。そして、しっかりと目を見て微笑みます。
「ヒース、いつも私を起こしにきてくれてありがとう」
ヒースは固まりました。
ダメージを受けているようです。
私は内心歓喜しながら、微笑み続けます。
「毎日私よりずっと早くに起きて、お掃除や、お洗濯をしてくれているのよね。いつもお仕事ご苦労さま」
「お、お、お嬢様……」
「何かしら」
「一体、どうなされたのですか!? いつもの冷たい視線は!? 凍ってしまいそうな皮肉な微笑みは!?」
そんなふうに思っていたのね……
わかっていたけれど、ちょっとショックだわ。
「そんな、大切な従者に冷たい視線だなんてとんでもないわ」
「お前、本当にマリージョアか!? 中に違う人間が入ってるんだろ!」
「? なんのこと?」
ヒースがガタガタと震えながら、メイドを呼びつけました。ほとんど叫び声でした。
「さ、さぁ、お嬢様、この真っ赤なドレスに着替えましょうね」
ヒースが私にドレスを押し付けてきます。
「いえ、今日はピンクのドレスにしますわ。ほら、お父様からお誕生日にもらって、ずっと着ていなかったのがあるでしょう?」
お父様の趣味の、フリルたっぷりのお姫様ドレスです。
……私がすっごく嫌いなタイプのやつです。
けれど、私はヒースの望む逆を行かねばなりません。きつい印象を脱却し、目指すはゆるふわお姫様です。
自分の好みを曲げるなど屈辱ですが、背に腹は変えられません!
いざ!
「あら、意外と似合うわ」
鏡の向こうの私は、ピンクのフリフリドレスをしっかりと着こなしています。
次はメイクです。
「今日から髪は巻かないことにするわ」
そう宣言すると、メイドはカーラーを取り落としました。
縦ロール命だった私です。
彼女にとって私の宣言は、青天の霹靂でしょう。
「アイラインは引かないで」
メイドがアイライナーを取り落とします。
子供っぽい丸く大きな目を隠すため、きつくアイラインを入れていた私です。
目尻のハネには特にこだわっていました。
「まぁ、可愛いわ」
こうして出来上がった私は、なんとも柔らかい雰囲気をまとった、ただの美少女でした。
誰にも、"毒バラ姫"なんて呼ばせません。
「お、おおお、お嬢様……なんと、いう……」
ヒースはがっくりと膝をつきました。
私の完全勝利です。
そのあとも、私は上機嫌に一日を過ごすことができました。
時折思い出したように、
「あ、そうだ。ムチを……」
などと、ヒースが言ってきましたが、そのたびに、差し出された手を優しく撫でてあげました。
ヒースは泣きそうになっていました。
毎日毎日、それを続けます。
すると私は、毎日毎日、上機嫌でいられます。ヒースが日に日に弱っていく様を見るのは爽快でした。
使用人たちに、お嬢様は優しくなったと褒められました。
見た目と態度を少し変えただけですのに。
私は今まで、そんなに冷たい人間に見えていたのでしょうか。
ちょっと悲しくなりました。
すると、その憂いを帯びた表情も庇護欲をそそられていい! などと言われるようになりました。
みんなが私に親切に話しかけてくれるので、知らない人との会話にも慣れ、緊張して毒舌が飛び出すことも少なくなっていきました。
みんな、私がいい娘に変わったといいます。
ちょっと複雑です。
そして、ついに、ヒースは私に近寄らなくなりました。
従者の仕事を、最低限こなすのみです。
昔を思い出しました。
ヒースがこの屋敷にやってきてからの一ヶ月間のことです。
あのときも、ヒースは私を避けていたのでした。
ああ、やっとヒースのおかしな要求から開放される!
私は心底ほっとしました。
なのに……
目につくのは、仕事をこなすヒースの姿ばかり。
気付けば目で追っているのです。
これまで、うっとうしいくらいに私にひっついていたヒースです。
いきなり離れられて、ちょっと寂しいのでしょうか。
まさか、そんなわけありません。
私は心から、ヒースから開放されることを望んでいました。
やっと、やっと、十年ぶりに開放されたのに。
ヒースを目で追ううち、ふと思いました。
そうだ、こんどは私がヒースにくっついてやろうか、と。
そう、これは十年間苦しめられたお返しなのです。
私は白やピンクや黄色の、柔らかいドレスをまとって、ヒースの後をくっついて回りました。
ヒースは戸惑った表情で逃げ惑います。
懐かしいです。
十年前も、こんなふうに、私はヒースを追いかけたのでした。
そして、私はヒースにたずねるのです。
「ヒースの好きな食べ物は何かしら?」
答えはきっと返ってこない。
そう思っていたのに。
「……木苺です」
ぼそっと、ヒースが言いました。
私はびっくりして、それから嬉しくなりました。
どんどん、ヒースに話しかけます。
「この本、面白かったの。一緒に読みましょう?」
温室のテーブルにつき、二人で本を読みました。
「ケーキを焼いてみたの。食べてくれる?」
「……美味しい」
と、ヒースは言ってくれました。
夢みたいです。
6歳のあの頃、私が望んだ関係が、今ここにありました。
私がヒースを一方的に追い回すことはなくなりました。
その代わり、私達は自然に歩み寄りました。
ヒースの口数も多くなっていきました。
そして、
お散歩に出かけた帰り、ベンチで休憩しているときに、ヒースは私に打ち明けました。
「俺はマリーに、"悪役令嬢"になってほしくなかったんだ」
マリー、といつの間にか愛称で私を呼ぶようになったヒースです。
「たしかに、周りの人たちが、私のことを"毒バラ姫"なんて呼んで、あまり良く思っていなかったのは知っていますわ。悪役令嬢と呼び方が変換されても仕方ないくらいに……だけど、今ではもう誰もそんなことは言いませんわ」
「そうだな。けど、あのまま放っておいたら、マリーは確実に悪役令嬢になってた。俺は知ってるんだ」
「まぁ……なんだか怖いわ」
「怖がらせてごめん。今はもう、心配いらないから」
ヒースは優しく微笑みます。
こんな表情ができるなんて、ここ最近になるまで知りませんでした。
「俺は崖から落ちて、マリーが悪役令嬢になる未来を見た。悪役令嬢のマリーは見た目も言動もキツくてさ、そのせいで誤解されることも多くって。結局、その誤解が原因で、皇太子殿下に婚約者破棄されるんだ」
「まぁ!」
あら? と思います。
婚約破棄、が甘く魅力的な言葉に聞こえたのはなぜでしょう?
「マリーを悪役令嬢にしないためにはどうすればいいかって考えたんだ。でも、全然思いつかなくて。妙案が浮かばないかと、とにかくマリーを観察し続けた」
「異常にひっつき虫だったあの時期ですわね」
私が顔をしかめると、ヒースは苦笑します。
「ごめん。けど、そのおかげで思いついたんだ。そうだ、俺はドMになろうって」
「は?」
いけない。素で蔑んでしまいましたわ!
「俺がドMになれば、マリーは俺を嫌がって、対抗策を考えるだろ? そして、たどり着く。ドMが嫌がる態度をとる、という対抗策に」
「まさか、ヒースはわざとドMのふりを?」
「俺はね、マリーが本当は優しいことを知ってたんだ。緊張すると、毒舌になってしまうことも。なのに、見た目や言動で、キツイやつだって誤解されるのは悔しいだろ。だから、ドMの俺を嫌がって、ドSな印象とは真逆の、見た目や態度が優しく見える人間になろうとしてくれればいいなと思ったんだ。そうなれば、マリーは悪役令嬢になんてならない。だって、優しい雰囲気を持つその子を、誰もそんなふうに誤解しないから。婚約破棄の未来だって回避できる」
「だからって、ほかにやりようがあったでしょう?」
私は少しだけいらだちました。呆れてもいました。たってあの頃の彼の態度は、本当に恐ろしかったのです。それが、彼の独りよがりなアイデアに端を発していたなんて。
「マリーは頑固だからね。俺が口で言ったくらいじゃあ、ドリル髪も派手なドレスも濃い化粧もやめなかっただろ?」
「それは……たしかに自信がありませんけれど」
「ほらね。俺はマリーより、マリーに詳しいんだよ」
「ずるいですわ」
唇をとがらせて抗議すると、ヒースは何かひとりごちました。
「(俺が何時間、乙女ゲー厶"青い花を恋する君に"をプレイしたと思ってるんだよ)」
「え?」
「なんでもない」
胸のあたりがむずむずする、優しい微笑み。ごまかされたのかしら? でも、美しい顔でそんなふうに微笑まれると、過去のことなど、もう、どうでも良くなってきます。何だか可笑しくなってきて、私はうふっと笑いました。
「はぁ、でもよかった。ヒースは本当はドMじゃなかったのね。私、これからヒースのために、ムチを振るってあげなきゃならないのかと思ってたわ」
大好きなヒースが望むなら、そうしてあげてもいいかもと、いつの間にか思っていた自分に驚きました。
けれど、そんな未来は来ないのね。
よかったわ。
「そのことなんだけどさ、マリー」
「何かしら?」
ヒースはおもむろにムチを取り出しました。
一体どこから?
そして、うやうやしく私にムチを献上します。
「う、うそでしょ」
私の体は、嫌な予感にわなわなと震えだしました。
「どうやらドMのフリしてるうちに、本当にドMになっちまったみたいでさ」
ヒースは爽やかに笑います。
そんな顔もできたのね………
なんて晴れやかな笑顔なのかしら………
「打ってくれる?」
「イヤァァァァァァ」
過去の偉人は言ったといいます。
歴史は繰り返されると。
《完》
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