ありがとう

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朝夕の寒暖差に悩まされつつ、五体満足で仕事に行っていた一月から三月末の期間を本当にありがたく思う、四月。今年の桜は平年より一週間ほど早く満開になった事にも感謝しなければならない。 これは私自身が忘れないために綴る、私の体験そのものだ。 私の母は、私が中学三年生の時に心肥大となり、当時は死亡率が十パーセント前後もあった手術を乗り越え、無事に家に帰ってきた。その時から母の体の中にはペースメーカーという機械が入り、長男であった私は母から主に炊事を任されるようになった。そのおかげで料理のレパートリーは中々に多いと自負している。 そんな母は、その後も数年に一回くらいの頻度で入退院を繰り返していたが、還暦が近づくにつれて入退院の間隔は次第に狭まっていった。 つい数ヵ月前の冬は大寒波だったことを記憶している。年末年始も当然のごとく寒かったが、私の母は生まれて初めて病院で年を越した。どれだけ外が寒くても、病院は快適だ。十二月の二十日に腎臓の機能が低下したことで下半身に水がたまり、その水を抜く事を目的とした入院だった。 「年末年始は一時退院して、ご自宅で過ごされても構いませんよ」 父に、医師から掛かってきた電話の内容だ。医師はこれを先に母に伝えていたらしく、母は年末年始を我が家で過ごす気満々であった。 「今年は特に寒いので、家内はそのまま入院させていてください」 これが医師に対する父の返事だ。後日、母から怒りの電話が来るも、父の説得に母は納得し、人生初の入院中に年越しする運びとなった。 母は五月生まれで、昨年還暦を迎えた。還暦祝いで同級生との旅行を数年前から計画していたが、それはコロナで延期となる。 人と話すのが大好きな母なので電話で友人と楽しそうに話すことは多かったが、直近の一年間では電話している姿も見掛けなくなった。多分、話すと会いたくなるのだろう。もしくは、体力面も思い返せばこの一年で明らかに低下していたから、単純に長電話が出来なかっただけかもしれない。 年を越し、六日頃に退院予定だった母の入院期間は二十日まで延びた。十二月の二十日に入院したから、丁度一ヶ月だ。 下半身の水は抜けたものの、強烈な利尿剤と元々飲んでいた心臓の薬により口は常に乾き、食欲も減っていく。 私は母の退院から一週間後に実家を出て一人暮らしを始めた。他ならぬ、母の為だ。私の仕事は早朝勤務、昼に出て夜中に帰る勤務、夜勤と毎週のように勤務時間が変わるため、その生活リズムに母を巻き込まない為だった。 二月の中旬だったか、休日に引っ越しの時に忘れた荷物を取りに実家に戻り、母のリクエストで百円寿司で母の好きな赤海老を買ってきた。安物と言うのはお店に悪いが、父が買ってくるスーパーの惣菜に飽きていた母は満面の笑みで食べてくれた。この時に「美味しい」と連呼してくれたのは一生忘れないだろう。 先に結論を書いてしまうが、母は四月の六日に息を引き取った。急逝心不全だった。百円の赤海老は、私が母に最後にご馳走した食事なのだ。この文章を打ち込んでいる今も思い出して涙が頬を伝っている。あれが最後だったなんて、今でも信じられないくらいだ。 三月の二十九日から三十一日までの三日間、私は元々の休日に有給をくっつけて三連休を取っていた。理由は特にない。私の会社では月に一回、有給を消費するために好きなところに休日を取るのだ。その三連休の二日目のお昼に、母から電話があった。 「体調悪いから病院に連れてってくれん?」 電話越しに聞こえる声は、いつも通りの母の声だった。確かに声を出すのが精一杯といった感はあったが、これは昨年からの事であり、私は慣れてしまっていたのだろう。 「ヤバイなら救急車呼んだ方がよくないか?」 私は母にそう言った。 私の一人暮らしを始めた場所は実家まで車で十五分かかる。それに車の調子が悪く、一月に信号待ち中にエンジンが止まってしまったが、それをその日まで放置していた。だから母を乗せたまま同じことが起きても困ると考えたのだ。 「救急車は呼ぶほどじゃないと思う」 私の提案を母は受け入れなかった。ここで私が救急車をゴリ押ししていたら、きっと母は受け入れただろう。しかし、何故か私は母に「分かった、今行く」と告げ、一応車の状態を説明、承諾してもらい実家に向かったのだった。 車は止まるどころか快調で、無事に実家に着くと母は椅子に座って「おかえり」と言ってくれた。 そこから外に出られる格好に着替えるまでに三十分近く掛かった。ズボンと靴下を履くだけだったのだが……病院に連れていってほしいなんて言うほど体調が悪いのだから、こんなもんだろうと思いながら私は母の支度を待った。 最初は病院に送ってそのまま帰るつもりだったが、母の着替えの様子を見て考えを改め、私は母を病院の車椅子に乗せて付き添った。夕方四時丁度に、仕事が終わったであろう父に電話すると、父も即来てくれた。だが、この時に弟に電話をしなかったことを、私は後悔する。 母は夜の六時くらいから検査の為に会えなくなった。そのまま病院に居たが、八時前に私は痺れを切らして帰宅。私が帰ってから父は弟に連絡したようで、入れ違いで弟が十一時前まで病院に居たらしいが、結局母に会えずじまいで帰宅した。日付が変わる頃、母の入院が決まって父は病棟まで母の車椅子を押して移動したらしい。その時の会話が、直接父と母が交わした最後の会話となってしまった。 翌日、お昼過ぎに母から父へLINEが届いた。 「早くICUから一般病棟に移動したい」 母は回復することを疑ってなく、母のいつも通りのLINEに父も回復を疑わなかった。 その日の夜、七時半頃に私のスマホに見知らぬ番号から電話が掛かってきた。丁度長編小説の次回作のプロットを組んでいて、スマホで調べものをしていたタイミングであったため、すぐに電話を取る。 「○○様のご長男さんの携帯ですか?」 ○○様に入るのは母の名前だ。私はそうですと告げると、どうも母の入院先の病院からで、父に連絡がつかなかった為に私の所に掛かってきたらしい。 「今入院されている○○様ですが、先ほど意識レベルが急激に低下し、呼吸が止まってしまいました。今から人工呼吸器を繋ぎます。取り急ぎご連絡をと思い、お電話させていただきました」 一言一句覚えているわけではないが、こんな内容だった。病院からの電話と分かった時点で察していたが、医師に伝えた「よろしくお願いします」という自分の言葉が震えている事が分かり、動揺すまいと自分に言い聞かせた。 病院からの電話の後、父に電話するも繋がらない。時間的に風呂か? いや、父ならもう少し早い。どこで何してるのか? 苛立ちと不安が過る。 父は一度諦めて、弟に電話をした。深呼吸をしてからの電話だったが、やはり声が震える。弟は仕事が丁度終わったところらしく、すぐに弟の運転で病院に向かうことになった。 弟との合流地点に向かう前、再度病院から電話が掛かってくる。 「○○様の心配が停止しました。今蘇生を試みておりますが、中々帰ってきません。延命措置をしたいので許可をください」 これもまた、うろ覚えであるがこのような感じの内容だった。確かに覚えているのは、このお医者様も大分焦りが言葉から感じられた事だ。 私は延命措置と聞いて判断に迷ったが、母はペースメーカーを体に入れてから高額医療が免除されていることもあり、医師の判断に委ねて許可をした。思いきった決断だったと思う。 その電話の五分後に、三度目の病院からの着信。 「今すぐ来ていただけますか?」 私は既に弟と合流し向かう手はずだと伝えると、すぐに通話は切れた。 弟との合流直前でもう一度父に電話すると、ようやく繋がった。ただ、晩酌しながらテレビで野球を観ていて着信に気がつかなかっただけだったらしい。病院に向かおうとしてたが、父が俺も拾ってくれと言うので若干回り道をした。運転席で弟が「タクシーで来いよ」と呟く。 父と合流し、病院に着くと医師から現状を説明された。心臓マッサージとAEDによる蘇生を繰り返しているが、未だに心拍は戻ってないこと、このまま延命措置として体外式膜型人工肺(通称:ECMO)に繋ぐ準備をしていると告げられる。 「もし、延命措置をして、その間に心拍が戻ったとしても、お母様は二度と自宅には戻れないと思います」 この言葉が私の心に深く刺さった。母の延命措置を許可したのは、他ならぬ私だったからだ。だが父と弟からは、その判断をしていなければ今頃亡くなっていたのだからと励まされた。 ECMOは、両の足の付け根の血管と機械を管で繋ぎ、機械が血液の二酸化炭素を取り除いてから酸素を付与し、再度体内に戻す装置だ。これと心拍の代わりになるバルーンを取り付け、母は心臓も呼吸も止まったまま生命維持が出来るように処置をしている最中なのだと医師は説明を続ける。 ただ、母は十七年間もの期間を心臓病と戦ってきている為、普通の還暦の人と比べて体力面が圧倒的に低かった。それも踏まえて医師の説明では、ECMOが働いている間に心拍が戻ってくる可能性はかなり絶望的ですと告げられた。また、もし仮に心拍が戻ってきても、今度は意識が戻るかどうか……と医師は続ける。母が乗り越える壁は高く、分厚かった。 ECMOは輸血を必要としたり、体外に血液を出してから戻すを繰り返す性質上、血液の凝固がどうしても起きる。その凝固した血液がECMOに詰まってしまうと、そこで機能は破綻してしまうのだ。その破綻までの期間は個人差があり、早くて二日から三日。長く持っても一週間とのこと。 母の心拍が停止してから約四時間後、日付が変わるギリギリで母への面会の許可が出ました。コロナの事もあり、本来は面会が許可される事例は少ないからと念を押されてICUの一番奥にいる母のベッドに案内されると、そこには人工呼吸器で強引に呼吸させられている母の痛々しい姿がありました。ベッドの足元にはECMOもあり、母と他人の血液が混じった赤い液体が絶えず流れている様子もうかがえます。 母の顔は人工呼吸機器である、母から見て左を向かされ、人工呼吸器から酸素が肺に送られる度に肺が大きく膨らんで仰け反りを、まるで全力疾走の後のような荒い呼吸のリズムで繰り返されていました。意識もなく、呼吸も心拍も停止しているとはいえ、とても苦しそうで、この苦しそうな姿は私が延命措置をお願いした結果なのだと再度認識しました。 面会時間は三分程度だったと思います。ほんとに、母を一目見て、終わり。そのレベルでした。 本来なら、せめて心拍が戻るまで病院で待ちたかったですが、これもまたコロナの影響で帰宅することになり、ただ家で母の回復を祈りながら病院からの電話を待つしかありませんでした。 帰宅した時には世はエイプリルフールとなっており、SNSを見ると可愛い嘘が散見され、母の事もきっとエイプリルフールなのだと現実逃避したり…… 次に病院から電話があったのは四月二日の夜でした。ECMOが起動してから四十八時間以上が経過しており、早い人ならECMOの崩壊が始まる頃合いです。電話は父に掛かってきたため、父の受け答えに耳を傾けていました。 「では、輸血を止めてください」 一分近く「はい」と相槌を繰り返した父が放った言葉から、ECMOの崩壊が近いのだと悟りました。 医師に呼ばれて再び父と弟と私の三人で病院に行くと、二度目の特別な面会が許可されました。この日の母は、人工呼吸器の呼吸も穏やかで、ちゃんと前を向いて寝ており、表情も穏やかに見えました。何より、ECMOのおかげで顔色が良く、とても危篤とは思えない寝顔で、しかも……絶望的と言われた本人の心拍が戻っていたのです。これは本当に驚きました。母は乗り越える大きな壁を一つ越えていたのです。 あとは意識が戻るのを待つだけと思ったのも束の間、先ほどの病院から父が受けた電話の内容は 『脳死』 の話しでした。 とはいえ、これは一度目の検査の結果であり、脳死判定はこれより六時間以上置いてから再度検査を行い、結果が同じであれば下されるものですので、この時点では本当に脳死というわけではありません。ですが、そのショックは心拍が停止したとの知らせ以上でした。 また、足の付け根の血管と管の繋ぎ目からの出血が酷く、これ以上の輸血も本人が苦しいだけだと判断した医師が先ほどの電話で父に輸血を止める事を提案したとのこと。父の輸血を止めてくださいという言葉は、長年連れ添った妻の脳死の可能性を聞かされた後の医師からの提案に対して、振り絞った言葉だったようです。 面会の終わり際、もうこれで最後だと思った私は、母の耳元で「ありがとう」と伝えました。これが届いたかは分かりませんが、私たちが母の面会中に会話をすると、母の心拍が上昇していたため、きっと耳は最後まで聴こえているというのは本当なのかも知れないと思いました。 輸血を止めてからも、ECMOは機能が崩壊するまで動き続けます。二日の夜に二度目の面会後、明け方まで病院に居させてもらいましたが、危篤の小康状態まで落ち着いたため朝の六時に帰宅。次に呼ばれたのは四日の夕方三時頃で、母の復活した心拍に不整脈が出て容態が急変したとの知らせでした。 また三人で病院に行くと、特例の面会の三度目が許可されました。ですが、この日は一度に三人は許されず、一人ずつ、それぞれ一分程度の面会です。 三度目の面会では、母の肌は土色になっていました。赤血球が壊れ始めていたのです。 面会は父、私、弟の順番で行いましたが、それぞれが母に声をかけると、やはり心拍が上昇します。最後の最後まで、生きる事を決して諦めない母は、この十七年間でも弱音はほとんど言いませんでした。 弱音を聞いたのは、一年前の志村けんさんが亡くなった時と、その後の最初の手術の時だったかの退院前に病室で仲良くなった人の訃報の二回くらいで、どちらもここ一年の事です。 最初の手術の時、手術室で執刀医に話し掛け、「あんた今、一応危篤だよ!」と怒られたのが母の武勇伝でした。それほど生きるという気力が強い人が私の母です。 結局この日も不整脈が収まって容態は安定し、日付が変わる前には帰宅することになりました。 最初に病院に向かった日か、二度目の病院に向かった日か、どちらかは忘れましたが、道中で父から母の心臓病の原因と思われるエピソードを初めて聞かされました。私がまだ中学校一年生か二年生くらいの頃に母がパートで働いていた時、肋間神経痛になったらしく、そこからすぐに心臓の弁の機能が低下して血液が心臓に溜まって心肥大になり、という話でした。 父は口数の少ない人で、多くを語りません。それに必要ない事は自ら話したりもしないので、私の知らない母の病気のエピソードをこのタイミングで聞かされて驚きました。ですが、四月六日の朝七時に病院から四度目のお呼びが掛かり、病院に向かう車内で父が独り言のように呟いた言葉にも驚きました。 「今日は結婚記念日だなぁ」 男兄弟二人だけなので両親の結婚記念日なんて今まで聞くこともなく、両親も話さなかった為に初めて聞かされた親の結婚記念日。その日が結婚から三十五年目の記念日でした。 母はきっとこの日を迎えたかったんだ。そう私が思った瞬間、なんとなく今日が母の最後なのではないかと頭に過ってしまいます。これは作家脳なのですかね…… しかし朝からずっと病院に待機しましたが、昼を過ぎても、夕方になっても、日が暮れても"その時"は訪れませんでした。父と弟と、三人で病院待機を交代しながら風呂と夕飯を済ませに帰宅をすることになり、私は最後の便を申し出ました。 帰宅途中で飲食店に寄り、遅めの夕食を済ませて家の玄関まで行きましたが、鍵を忘れていることに気がついて病院に取りに戻ります。再び鍵を手に家に帰り、さぁ風呂だと思った瞬間に弟から着信があり、いよいよだと医師が伝えてくれたと言われました。 風呂に入る前で良かったと思いながら病院に戻ると、待ち合いに父の姿はなく、弟が一人で座ってました。 「最後の面会が一人ずつ許可されたから、次行って」 この時の時間は夜の十時を越えたばかりでした。 ICUのインターホンを押すと、医師と父が出てきて私は父と交代で母の元へと案内されました。 「もう最後なので、いつまででも居てもらって構いませんからね」 医師からの言葉でしたが、私が代わらなければ弟も父も母の隣には来れない。それならば最後を看取るのは父の役目だろうと思い、私は数分だけ滞在しようと決めました。 「母に触れても良いですか?」 近くにいた医師に確認すると、快諾してくれました。過去三度の面会でも母に触れることはなかったため、久しぶりに母の手を握りましたが、まだ暖かかったです。指先は少し冷えてましたし、水が溜まって膨れてきてはいましたが、紛れもなく母の手でした。 このままずっと握っていたい。数分だけ滞在するという決意は早くも揺らぎそうになりましたが、五分ほどで手を離して医師にお礼を言って母の元を去りました。 その後は弟が面会し、同じように短時間で出てきて父と交代しました。 「俺がずっと居ていいのか?」 一人しか母の横に居られない都合上、父は申し訳ないと思ったのか私たちに確認してきましたが、私も弟も「いいよ」と短く答えました。父は「ありがとう」と告げて母の元へと向かい、私と弟は待ち合いで"その時"を待ちました。 夜の十一時頃、待ち合いの扉をノックする音があり、母が旅立ったのだと私も弟も思いましたが、医師の言葉は違っていて 「お母様の心拍は停止しておりますが、ペースメーカーがまだ動いているため脈はあります。これで本当の本当に最後なので、三人で入室できるように許可を取りました。お母様の近くに居てあげてください」 涙が出ました。 コロナさえなければこんなことも無かったのかもしれません。何はともあれ、私たち家族は両親の結婚記念日の最後の一時間を一緒に過ごすことができました。 日付が変わるまで母の命の灯火が繋がりそうなのが見えてきて、私たちは三人で母を応援しました。 「頑張れ。結婚記念日が命日なんて嫌だろ? ここまで頑張ったんだから、あと少しだ」 日付が変わるまで残り十五分を切った頃、ペースメーカーで安定していた心拍は急激に低下していきます。安定していたと言うのは変ですね。本人の心拍は既に止まっていて、ペースメーカーだけで鼓動をしている状態なので、ペースメーカーの限界が近づいたのだと思います。 そのままどんどん脈は弱くなり、日付が変わる三分前に死亡が確認されました。 きっと、母は記念日なら忘れないと考えて、でも限界まで生きたくて記念日を満喫したのでしょう。 思い返せば、母は何にでも元を取る事を考える人でした。バイキングで母に無理やり食べさせられた思い出がよみがえります。三十一日にECMOを起動させ、人によっては一週間持つと医師に言われたECMOは母が旅立つ数分前まで動いていました。血液が凝固して詰まるのではなく、失血によってECMOの機能は停止したのです。ECMOが母を延命させたのは丁度一週間。本当に、何でも元を取る人でした。 実は数日前から葬儀社に連絡を入れていた為、葬儀の段取りはスムーズに進みました。母を会館に安置してもらい、七日の朝十時には会館を開けていただいて母の友人に来ていただいたり…… 実はこの母の友人が母に泣きながらお別れを告げている時に不思議な事が起きました。 会館が開くやいなや、即母に会いに来てくれたのは、母と高校の時からの友人でした。この人がほんとによく話す、とても真っ直ぐな人だったのですが、なんと喪中とのことで母の通夜告別式には参列できないとの事。泣きながら、母に「まだ生きるって言ってたじゃない! 話が違う!」と何度も何度も繰り返していました。 何にでも元を取る母は、大病を患って手術で痛いおもいをしたのだから、九十歳までは生きないと割に合わないと、この友人に何度も話していたそうです。だから"話が違う"と。 一通り泣き続けると、母の友人は父に向き直り 「この子は貴方と結婚できて、本当に幸せだったと思います」 と父に伝えました。本当は、母はこの友人に会う度に父の愚痴を言っている事を私は知っていました。と言うのも、この母の友人は私が以前飲食店で働いていた時の常連さんで、私とも面識があったからです。とてもお喋りなこの人から、色々と聞いていました。 そして、思い込んだらそこに真っ直ぐ! という人なので、母から愚痴ばかり聞かされている私の父に対して、何でもっと大切にしてくれなかったの! などと下手したら言われるかもしれないと危惧しておりました。 私がこの人から聞いて知った気になっていた父と母、そしてこの友人さんとの関係はここ数年のものでしかなかったのです。母は高校の頃は人とあまり話さず、人間関係も良好ではなかったそうで、暗い印象だったのだと、友人さんは話し始めました。二十歳を越えて友人の方が母と再会したときには、母は父と結婚しており、驚くほど母は明るくなっていたのだと。友人さんは、父が母を変えてくれたのだと、だから母は父と結婚できて幸せだったと言ってくれたのでした。 母の友人の方の話が一段落したところで、静かな会館に何かアラームのようなものが鳴り響きました。何の音なのか、耳を澄ますとその音は眠っている母から聴こえてきます。 音の正体は、ペースメーカーのアラームでした。 母の友人の言葉を肯定したのか、それとも恥ずかしい話をされて嫌がったのか、どうしてかは分かりませんが、そのタイミングで母の心臓の代わりで最後まで頑張ったペースメーカーはアラームを響かせたのです。 もしかしたら本人は聞いたことがあったかもしれませんが、私や父、弟もそのアラーム音を聞いたのは初めてでした。もちろん、友人の方も。 この友人の方は一度帰宅し、通夜が終わった後にもう一度来てくださって、棺の中の母と最後の談笑をしてました。もちろん、笑い声はこの友人の方のだけでしたが…… 「ありがとう! 貴女は良い友人だった!!」 この言葉を残して、母の高校からの友人は笑顔で去っていきました。最後に笑ってこんな言葉を言えるなんて、本当に凄いなと思った瞬間です。 通夜、告別式では、父が参列者に挨拶する時に声が震える姿がありました。父が泣くのを見たのは、その日が初めてです。母の棺に花を手向ける時に、母の友人の一人が手紙を抱いたミニーマウスの人形を入れる瞬間には、背後に立つ父が嗚咽を堪えたのが聞こえてきました。 男だからか、こういう時に涙は他人に見せたくないと私も堪えてしまいます。それは父も同じなようで、でもそんな父が母の為に泣いてるのを見ると安心しました。自分は泣くのを堪えてるのに、変な話ですよね。 母の棺を再び閉じると、出棺の前に最後に皆で「ありがとう!!」と母に伝え、火葬場に向かいました。 母については、実は一つ謎が残りました。母の他の友人が通夜の時に教えてくれたのですが、母は家族にも内緒でダッフィーを可愛がっていたのだと……本当に大事にしていたので、棺に入れてあげたいから探してきてくれないかと。 おそらく母がダッフィーを購入したのは十年以上前で、それを私たちに隠し通したのだ。弟が通夜の後に実家に戻って捜索したものの、何処にも見当たらず。ただ、ダッフィーの着せ替えの服は次から次へと見つかった為、確かに本体は何処かに隠してあるのだろう。 結局見つからずに、翌日の告別式で友人宅に預けてないかと聞いて回ったところ、母が大事にしているのはダッフィー&シェリーメイの二体であることが判明し、さらに謎は深まりました。もちろん、友人の誰も預かっていませんでした。 母の火葬も終えて家に戻った八日から、これを書いている本日十三日まで、ひたすら実家を片付けながら探しましたが、見つかったのはダッフィー&シェリーメイの着せ替え服が三十着以上。一着で約四千五百円もするため、十五万円近い着せ替えの服が実家のあらゆる場所にありました。 本体は一体どこに……なぁ、母よ。
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