潰れた金魚

1/1
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
夕焼け空の元、男は重い足取りで薄汚れたアパートの一室のドアを開ける。 ギシギシと音を立てる、やたらと立て付けの悪いドアを男は寄りかかるようにして開き、大きく息を吐いた。そしてそのまま、男はネクタイを緩めると、着替えることもせず古びた小さなソファーに倒れ込み、顔をうずめた。 疲労と悲しみで声が出ない。 男は解雇された。 もっとも、客観的にみれば、男の営業成績では当然と言えるのかもしれないが。 それでも、高校を卒業してからの数年間、薄い給料袋の対価として毎日毎日怒鳴られながら働いた結果がこれかと思うと、男は自分が惨めに思えて仕方がなかった。 泣き叫んで暴れたい気分だったが、今の男にそんな気力は到底なかった。熱に浮かされたかのようなぼんやりとした頭で、男はただ天井を仰ぐ。 白い天井に、男に解雇を言い渡した社長の、意地悪そうな顔がうかぶ。 微塵の申し訳なさもなしに自分の未来を根こそぎ奪い去った、あいつの顔が憎い。 しばし男は悔しさと絶望感に打ちひしがれていたが、今彼にできるのはソファーの上で縮こまることだけだった。 男はこれからのことについては疎か何も考えれられないままであったが、無情にも時計の針は進む一方であった。 暫くしてようやく、男は自分をなだめるかのように深いため息をつき、よろよろと立ち上がった。いくら疲れていても、やはり腹は減るものだ。とりわけ今日、男は朝から何も口にしていなかった。 小刻みに震える手で、男は戸棚からカップ麺を取り出した。残りが1、2、3……。あと3日はもちそうだ。男はカップ麺にお湯を注ぎ、再びソファーに寝転がる。ただそれだけの事であったが、男の体力は尽きてしまった。 男はそのまま眠りについた。 男は久しぶりに夢をみた。 小さい頃に両親につれていって貰った、近所のお祭りの夢だった。 暗闇の中、提灯の、やさしい橙色の明かりが背丈の低い彼を照らす。陽気な神楽の笛や太鼓の音が聞こえる中、どうせ棄てることになるんだからといってきかない母親に駄々をこねて、男は一度だけ金魚すくいをさせてもらった。 帰り際、幼い男は満足げに、小さなビニール袋に入った黄金色な金魚を何度も何度も眺めた。 ふと目が覚める。 男はハッとして時計を見ると、夜の3時を回ったところだった。 妙な姿勢で寝たためか全身が痛い。 男は随分中途半端な時間に起きたものだなと苦笑しながらも、よろよろとソファーから起きると、忘れかけていたカップ麺をすする。当然だが、ふやけていてまずい。 男が当時金魚すくいでとった金魚はまだ生きている。かれこれ10年以上飼っていることになるが、和金の寿命もまたそのくらいあるのだそうだ。 最近は忙しくて餌をやる程度のことしかできていなかった。 男はどうしようもなく懐かしく思って、まだ半分も食べていないカップ麺を放って玄関に置いてある金魚鉢の方へと向かった。 男は水がこぼれないように慎重に金魚鉢を動かし、テーブルの上に置く。 小さくみすぼらしい金魚鉢とは明らかに不釣り合いな、蛍光灯の光を受け黄金色の大きな体を悠々と動かす、その立派な金魚は、男の小さい頃からの自慢であった。 男はしみじみと金魚を眺めた。 久々に眺めた黄金色があの日々を思い出させる。 毎日が輝いていたあの頃を…… 優しかった両親とも、今では訳あって縁が切れてしまった。 しかし何よりも、まるで当時と対比するかのように今の悲惨な境遇が思い返される…。 男は、自身の中で急速に膨張する怒りを冷静に捉えていた。 男は己の怒りの原因がわからなかったが、この理不尽な怒りを鎮める方法はないかと、今にも押しつぶされそうな理性で必死に考えた。 とうとうそれは分からずじまいだった。 男は薄ら笑らいを浮かべながら金魚鉢を両手で持ち上げると、それを力の限り床に打ちつけた。 バリンと想像以上に大きな音がして、中の水が飛び散る。 男は一瞬たじろいだが、それは寧ろ男を挑発した。 男は、行き場を失ってびちびちと跳ねる金魚に、憎しみを込めて思いっきり右脚を振り下ろした。 感触はあったが、当たり所が悪かったためか金魚はまだ尾びれをバタバタと激しく動かしている…… 男は、己の体液を辺り一面に撒き散らしながらもびちびちと跳ね続ける金魚に本能的な恐怖を抱き、何度も何度も、それの原型が無くなるまで必死になって踏みつけた。 はぁ、はぁ、はぁ………… 静まり返った部屋で、男の荒い息ばかりが響く。男は自分では制御できない程に激しくなっている呼吸に憑かれていた。 両手で胸を抱え込み、バクバクと振動する心臓を必死に抑える。 しかし、今にも飛び出しそうなほどに見開いた男の眼球に、血溜まりの中に浮かぶ潰れたた白い浮き袋と、破片となって黄金色の光を反射する鱗が映った時、男は堪らず、その場で嘔吐した。 何度もえづいて渇いた唾しか出なくなっても止まらなかった。 そして喉を締められるような苦しみの中で初めて、男は自分がやったことが明らかに不可逆的なものであることに気がついた。 興奮で全身が火照る中、おぞましい悪寒が波となって男の身体中を駆け巡る。 男はどうしようもなく恐ろしくなって、叫び声をあげながら無我夢中で家を飛び出した。 どれくらい歩いたのだろうか。 辺りは深夜の暗闇に包まれている。 余程遠くまで来てしまったのか、それとも暗いからというだけなのか、男は、自分が今どこにいるのか分からなかった。 しかし、夜の涼しい空気に包まれ、街灯の蒼白い光に照らされた時、男は既に幾分冷静になっていた。 今考えれば、そう焦らなくても、どうせいつかはこうなっていたのだろう。男は自虐的に笑ったが、慰める者はいなかった。 男は近くにあった公園のベンチに座った。 今になれば、あの理不尽な怒りの原因もよくわかる。 男は大きく深呼吸をした。 その時、夜の静けさに紛れて微かに音が聞こえた。 その音の正体を感じ取った男の口角が上がる。 男は途端に立ち上がると、音がする方へと全力でかけて行った。 音はだんだん近く、大きくなっている。 間違いない。 そして遂に、ガタンガタンと天地を揺るがす強大なうねりを生み出し迫り来るそれの、鈍い銀色の金属光沢が見えた時、男は再三安堵し、この醜い顔を、四肢を、胴体を、あの黄金色の金魚のように木端微塵に打ち砕いてくれることに全幅の期待をおいて、 満面の笑みで電車の前に立ちはだかった!
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!