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二度寝をしようと何度か試みてみたけれど、閉ざされた瞼はヒクヒクと痙攣するばかりで、一向に眠りに落ちていきそうも無い。仕方無しに私は小さな猫の顔が沢山描かれている自分の布団の上に起き上がった。
衣類やら化粧品やら雑多な物が散らかっているワンルームの自分の部屋が目に入ってきた。
スマホもテレビのリモコンも、昨日ローテーブルの上に置いてそのままになっている。
私は念の為、ミントグリーンの遮光カーテンを開けると、ベランダから外の様子を覗いてみる事にした。
柔らかな風が寝癖でぐしゃぐしゃになった髪を静かに揺らしていく。昨夜とは違って三毛猫柄のパジャマ一枚でもさほど寒さは感じない。
やはり争いの音は特に聞こえてこない様だ。
丁度、隣の部屋のカップルが出勤の為に通りに出てきたところだった。いつもの様に手を繋いで、ピッタリと体を寄せ合いながら駅の方へ向かって行く。
通りを行き交う人々も皆一様にそれぞれの目的地に向かって足速に目の前を通り過ぎて行く。
カップルが丁度ベランダの下を通りかかった。
「君は世界で39億番目に可愛いよ」
「あなたより格好良い男は世界で39億人しかいないわ」
二人はいつもの様にお互いの目をうっとりと見つめ合いながら囁いていた。
けれどよく見てみると、二人の瞼は赤く腫れ上がっていて、男の方は額から流血の後すらあった。
同じ様に目の上を赤く腫れ上がらせ、ハゲ頭に血が固まったばかりの大きな傷跡をつけたスーツ姿のオジサンが、愛妻弁当と思われる保冷バックを抱えながら、駅に向かって歩いて行く。
ゆっくりとお向かいの平家の扉が開くと、足を引きずりながら瞼を赤黒く腫らせたお爺さんが出てきた。後から出てきたお婆さんも口元が切れて大きく腫れている。お婆さんは右腕に包帯を巻いていて、鍵が上手く閉められない様で手こずっている。
「早くしろよ、ババア。モタモタしやがって」
お爺さんがお婆さんの後ろ姿に朗らかな声をかける。
「右手が使えないんだから、チビちゃんのリードくらい持ってよ。使えないジジイね」
お婆さんは明るい声でそう返した。
お散歩が嬉しくて仕方ないのか、チビちゃんはその場でクルクルと回っている。
そういえば「青春ラ・ブス通り」に脳は結構嘘をつくものだ、って書いてあった。
外部から伝わってくる雑多な情報は脳で処理するにはあまりにも多過ぎるし、あまりにも移ろい易い。
だから私達が現実として認知しているものは、実は外部からの情報を元に脳内で最もデフォルトとして再構築したものなのだそうだ。
つまり脳は常に自分自身に嘘をついている。
外部からの情報が受け入れ難いものであれば尚更なんだろう。
そもそもが今私が見ている現実だって嘘では無いなんて誰が言い切れるだろうか……。
私は再び体中に染み渡っていく充足感に満たされながら、クルクルと回り続けているチビちゃんを眺めていた。
そうだとしたら……脳が自分自身についた嘘は誰が断罪するのだろう……。
(終わり)
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