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遠くを見つめていたというよりも、ただ単にぼーっとしていただけだ。とにかく、ドーナッツに食いついていたところが印象に残っていなくてよかった。
「確かに、学校の近くのカフェにはよく行きました。でも誰かがランニングしてたなんて、全く印象にないです」
そのカフェにいる自分を思い出すたびに、暖かいような懐かしいようなほっとした気持ちになる。そこで過ごした時間が、とても居心地の良いものだったから。
「それでね、ある休校日、その子が一人で教室にいたらしいのよ」
気が付けば、お母さんはゲラゲラと笑っていた。
「その時はじめて会話したんだって。でも大したことは話せなかったらしい」
「確かにそんなことがありました。私もその休校日のことを覚えています。それ以外は、とくに話したことはないと思います。しかも真一くん、いいなと思う子、と言っただけで、好きとは言ってませんよ」
これまでの会話から、高杉くんが好きだなんて一言も言っていないことに気づき、私はそれを指摘した。細かいことかもしれないが、お母さんの思い込みの可能性の方がずっと高いと思った。
「あの子が女の子の話をしたのはあの時だけなのよ。しかもホワイトデーの時」
これが恋でなくて何なのよ、といった感じで、お母さんは自信満々の笑みを浮かべた。反論の言葉を探していると、彼女は話を本題に戻した。
「それでお願いしたいアルバイトというのは、真一の話し相手になってほしいの。週に二、三日、毎回二、三時間だけでもいい。彼に会って、話し相手になってもらえませんか。お礼はちゃんとするわ」
お母さんはそう言うと、カバンの中から茶色い封筒を取り出した。
「とりあえず夏の間だけ、お願いできないかしら、ルナさんが辞めたくなったらいつでも辞めていいわ。ここにとりあえず謝礼を」
そう言いながら、彼女は丁寧に封筒を私の方へ滑らせた。封筒の端には、「十万円在中」と小さく書いてあった。
「同級生の話し相手なら私にもできます。でも謝礼はいただけませんよ」
私はとっさに両手で封筒を押し返した。
「ルナさんの時間を拘束するわけですから、それに真一、最近ちょっと気が難しくて、謝礼をもらってくれないと、私が気がすまないわ」
お母さんは必死に私を説得しようとした。喫茶店でお金の入った封筒を押し合いするのもなんだかな、と思い、私はとりあえずそれをいただくことにした。
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