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春の柔らかな陽光に包まれる江戸の名所、両国橋。騒がしい八つ半(午後三時)の広場では、ひとりの男が注目を集めていた。背の高い、変わった風貌の男である。
黄ばんだ衣服は修験者のものだ。しかし頭は坊主でなく、艶やかな黒髪をそのままに伸ばし、ひもで無造作に束ねている。
背に、何か背負っていた。それは一見、黒い翼に見えた。けれどよく見れば、二枚の板に鳥の羽をぬいつけたまがい物だとわかる。
顔は見えない。鼻が長く赤い、天狗の面をつけていた。
その男は自らをまさしく〝天狗〟と名乗った。人々はしかし、男を〝手妻師〟と呼ぶ。現代で言うところのマジシャンだ。
男はまず、水瓶からの脱出芸を披露した。おお、と客のどよめきがあがる。次に男はカラの箱から桜の枝を二本、三本と出して見せた。客の女が枝をもらい受け、恥じらうように微笑む。最後に男は、懐から白紙と二本の羽団扇を取り出した。少しだけのぞいた唇で団扇を噛み、紙を千切り、手に持ち替えた団扇で紙くずをあおぐ。
ふわり、と紙くずが舞い上がった。右に左にひらひらと舞い、それは生きた蝶のごとく自由に動いた。二本目の団扇を手にし、さらにあおぐ。もうひと欠片、小さな白が舞い上がる。生を得て、先の蝶を追いかける。ひらひら舞い踊る白と白。二匹の、互いを愛しむような、蝶のたわむれ。つがいとなった蝶の一生を描く、これはそういう演目だった。
やがて二匹の蝶が地にひれ伏し、動かなくなる。男がたくみに操っていた団扇の動きも止まった。笑い、はやし立て、騒いでいた人々の横顔にふっと影が差し、悲しい空気が満ちてくる。しかし次の瞬間、
どこからか何百もの蝶が躍り上がった。それはもちろん紙のくずでしかなかったが、人々の目には二匹の蝶が死に際に残した命、子どもたちの躍動に見えたのだった。
喝采が、あがった。この世のものでないような、束の間の美しい光景に、人々はすっかり魅了されていた。
「お前、なにゆえ天狗のふりをする?」
男が傘に溜まった銭を回収し帰り支度を整えていると、ふいに不機嫌な声がふってきた。男は天狗面をあげる。身なりの良い、男の童がひとり、睨みを利かせていた。ぎゅっと袴を握る手元から、押し殺した恐れが伝わってくる。どこぞの武家の子息か。
「ふりではない。俺は正真正銘、本物の天狗である」
男が答えると、童の目つきが増々きつくなった。
「だが、お前の翼も、顔も、偽物だ。面妖な術も、偽物に違いない」
「俺は本物の天狗である」
なおも落ち着いた声で返す男に、童の方が先に根負けした。ふるふると拳を震わせ涙目になると、
「嘘つきめ!!!」
言い捨て、その幼く気高い背中は、群衆の中に消えてしまった。
「俺は本物の天狗である……」
もはや誰もいなくなった虚空に向け、男は寂しくつぶやいた。
その一部始終を見ていた男がある。遊び人風の着流しに羽織をひっかけ、煙管をふかしている。頭は、腰まで流した総髪である。気だるく下駄を動かし、嘘つき天狗に近づいていく。
「お前は何ゆえ天狗を名乗る?」
童が聞いたのと同じ問いを、涼やかな声で、発した。
嘘つき天狗は何も答えなかった。
遊び人風の男と嘘つき天狗は並んで両国橋の広場を抜けた。遊び人風の男はぷかぷか煙管を吹かし、嘘つき天狗が米屋で米を買い、振り売りから野菜をいくつか買うのを観察しつつ、聞いた。
「生まれはどこだ?」
視線の先で、不格好なまがい物の翼が地面に擦れている。嘘つき天狗はしばし黙ったあと、
「……山だ」
短く、答えた。
「どこの山だい?」
「……北の、端」
遊び人風の男は細いあごに手を添え、深く考え込む様子になった。寒い場所だね、と独り言ち、薄く笑った。
二人は、今日出会ったばかりの見知らぬ間柄である。けれど遊び人風の男は、長年の友に接するように親し気に話した。そして自然に行動を共にする。嘘つき天狗も、なぜか、彼を拒まなかった。ついてくるのが当たり前だ、とも思っていた。
嘘つき天狗の家は、町はずれの山中にあった。山道はなく、険しい獣道をよじ登るように進んだ先に、ひっそりと藁ぶき屋根の猟師小屋がある。遊び人風の男は、嘘つき天狗が薬草を採り、雉を射殺す道々を、着流しのわりに軽々とした足取りでついてきた。
ふいに、桜が香った。小屋の裏手に、一本だけ若い木が生えていた。小屋の縁には、その桜をぼんやりと見上げる女がいる。青い豪華な打掛けをまとった、美しい女だった。物憂げな寂しい横顔に、いまにも消えそうな儚さがあった。
「あれは朧月のような女だね」
遊び人風の男が感心したように言った。嘘つき天狗がはっとしたように振り返った。
「おや、どうしたい?」
「――いや。ただ、俺も同じように思っていた。あの女の名は、月子という」
「なるほど、似合いの名だ」
「あら、お客さま?」
朧月のように儚い女、月子がこちらに気づいた。ふわっと嬉し気な笑みを咲かせる。その顔に、先ほどまでの物憂げな寂しさはなかった。綺麗な所作で縁に手をつき、
「どうぞ、おあがりになって」
二人を中へと誘った。
「人間の方に会うのは久しぶりだわ。ほら、このひと、天狗でしょう? それも、とても内気な天狗なものだから、お友だちなんてさっぱりできなくて」
お茶を出しつつ、月子は嬉しそうに語った。遊び人風の男は微笑みつつ、
「あなたは天狗どのの奥様で?」
と聞いた。すると月子は一瞬だけとてもつらそうな顔をして、
「そのようなものですわ」
と静かに答えた。
遊び人風の男は続けて質問しようとしたが、ふいに、月子が激しく咳き込みだしたので言葉を飲みこんだ。
嘘つき天狗が慌てて板間をにじり寄り、月子の肩を抱いた。
「横にならなくてはだめだ」
「でも、お客様が」
月子は心配するが、すぐに咳がもっとひどくなり客を気にする余裕はなくなった。
嘘つき天狗は慣れた手つきでさばいた雉と野菜と米で粥を作り、月子に食べさせた。月子は自ら匙も握れぬほど弱りきり、先ほどまでの健常さが嘘のようであった。
薬草を煎じた薬を月子の喉に流し込み、その後、月子の寝息が聞こえてくると、嘘つき天狗はようやくほっと息をついた。その様子をじっと見ていた遊び人風の男が小首を傾げて、また、聞いた。
「お前は何ゆえ天狗を名乗る?」
嘘つき天狗は面を取り、力なく腿の上に置いた。鼻の長い赤い顔を見下す素顔は、驚くほど美しく整ったものだった。
嘘つき天狗は真の名を、犬彦という。名の由来は、彼の出生にある。
出羽の国(秋田県)稲村の貧しい百姓家に生を受けた犬彦は、異様に美しい顔立ちをしていた。母は赤子の顔を見た瞬間、人買いに売ろうと決めた。
この子は〝最初から居ぬ子〟として扱おう。
それで犬彦と名付けた。
そういう大人の事情を、犬彦は知らない。
ところで稲村は、天狗の伝承が多く語り継がれてきた土地である。村を囲む山々は緑が濃く、深く、人々は恐れて足を踏み入れない。むき出しの自然が、怪異の噂に信ぴょう性を与えていた。
いわく、山には赤ら顔で鼻の長い天狗という妖怪が住んでいて、大きく黒い羽で自由に空を駆けまわる。そうして悪い子ども見つけては、気まぐれにさらって喰うという。
また森の木を切り倒した者には、全身がただれて死ぬ呪いをかける。
しかし、天狗の好物である干し柿をやれば、お礼に望みをひとつ叶えてくれるという。
犬彦は多くの村人と同じように、天狗の存在を信じていた。畑の手伝いや幼い妹弟たちの面倒を見る合間に、幼馴染の弥助と山を見上げては天狗の話をした。
「天狗はいいよなぁ、空が飛べんだから、どこへだって行けるよな」
弥助がやさぐれたように言えば、妹を背負った犬彦も強く頷いた。
まだ7つの犬彦が面倒を見る3つの妹。妹はこの頃よく熱を出して寝込む。いまも、額に汗をにじませてつらそうな呼吸をしていた。
犬彦は妹の顔をそうっと振り返っては生きていることを確認し、ほっと息をつく。身重な母と自堕落な父は頼りにならない。
犬彦はふいに大声をあげて泣きたくなったけれど、歯をぐっと噛みしめて気持ちをやり過ごした。そうして妹をあやしながら、言う。
「天狗は何年かに一度、弟子をとるそうだ。山からおりてきて、子どもを選ぶんだと。そんで、弟子に選ばれた子どもの家には、たんまり金貨を置いてくんだ」
「へぇ、いいな。弟子になったら、おいらも空、飛べるようになんのかな」
「うん。教えてくれるよ」
「天狗どのぉ、おいらを弟子にしておくれよ、後生だよぅ」
やまびこで返ってくる弥助の声を聞きながら、犬彦は着物の内に手を入れ、干し柿の感触を確かめた。天狗の好物。干し柿をやれば、お礼にひとつ願いを叶えてくれるという。
――俺は弟子になんなくてもいいよ。だけど、これをやるから妹を治す薬をおくれよ。願いを、叶えておくれよ。
天狗にいつ行き会ってもいいように、犬彦はつねに干し柿を懐に忍ばせているのだった。
稲村についに天狗がやってきたのは、その年の秋口のことだった。赤や、黄や、茶の色にどんどん犯されていく緑の山から押し出されるよに、その天狗は姿を現した。
白い変わった着物に、へんてこな帽子をつけ、鼻が高くて赤い面で顔を隠していた。
修験者がやってきた、と村人は言った。人買いがやってきた、と母は言った。
その天狗だか修験者だか人買いだかは、迷わず犬彦の家に立ち寄った。そうして、犬彦をもらい受けたいと言った。
「さて、行こうかの。こん先は、うまいまんまがたらふく食えるようになるぞ」
犬彦は腕を引く強い力に抗った。まだ妹を背負ったままだった。懐から柿を取り出して天狗の前に突き出した。
「これをやるから、だから、妹を治す薬をおくれよ」
必死な犬彦とその背に力なく乗る妹を、天狗は赤い面を少しずらして見比べた。面の中身は、どこも変わったところのない、普通の男だった。
「――まあ、いいだろう。ほれ」
天狗は麻の小袋を、放ってよこした。犬彦は喜んで何度も礼を言うと、その小袋と妹を母の腕にあずけた。が、母は驚いて、妹の体を投げ捨ててしまった。ぐにゃりと折れた妹の体から、大きな蝿が数匹飛び上がった。妹はとっくに死んでいたのである。
呆然と佇む犬彦を、天狗は表に連れ出した。そこに、友の姿があった。
「……弥助」
弥助は犬彦の顔を、仇を見るような目で睨んだ。
「お前が弟子に選ばれたのか」
――ああ、そうか、と犬彦はそのときはじめて思い至った。
俺は天狗に選ばれたのだ。弟子になるのだ。
「おいらがなるはずだったのに。お前なんかもう、嫌いだ。ダチでも何でもねぇ。どこへでも行っちまえ!」
犬彦はこの日、母と、妹と、友をいっぺんに失った。
がっはっは!
山に入って数刻後、天狗は大きな笑い声を立てた。犬彦の話に笑ったのである。
翼はどうした? と犬彦は聞いたのだった。見たところ、目の前の天狗に翼はない。人目につかぬよう、隠しているのか?
面を外して流水で顔を洗っていた天狗は、あっけにとられたような顔をした。
お前は天狗だろう? 俺を弟子に選んだのだろう? 俺は空を飛べるようになるか?
すると天狗は笑ったのだ。
「おめぇ、かかあに何て言われて育ったんだ? おめぇはこっから蔭間になるんだよ。天狗でなく、か、げ、ま。男の、夜のお相手をするわけよ。おらぁ、お前さんを買い取って茶屋に売りつける、そういう役割の人間でさぁね。人買い、ちゅう言われとる」
犬彦は知らなかったが、人買いは幕府の目を欺くために山で修行をつむ修験者にふんして村々をまわり、子どもの買い付けを行っているのであった。その話が形を変え、天狗の伝承となっていたのだ。
「う、嘘だ」
真っ青な顔で震えだした犬彦を、天狗――いや、人買いは憐れむような目で見た。
「諦めな。おめぇは捨てられたんだよ」
一週間後、人買いが死んだ。宿をとるために立ち寄った村で流行り病に当たり、ぽっくり逝ってしまったのである。犬彦は突然、自由の身になった。そして、人買いが着ていた修験者の衣服と、天狗の面と、いくらかの金銭を手に入れた。身の丈に余るそれらを装備して、犬彦は江戸を目指した。陰間とやらになるつもりは毛頭なかった。けれども、村に戻ることもできないと思った。
――俺は捨てられたんじゃない。
と、犬彦は自分に言い聞かせた。
――俺は天狗の弟子になるために村を出て、そして、天狗になったのだ。
たった七つの幼い身で、やっとのことたどり着いた江戸の町。そこで犬彦は、手妻師の芸を見た。水瓶からの脱出芸に、無から有を生み出す術、蝶の曲。それらはまるで、妖怪が繰り出す妖術であった。思い描いていた天狗がやりそうなことだった。
見よう見まねで、犬彦は手妻師の芸を真似し始めた。手先の器用な犬彦は、憧れた手妻師以上に芸を極め、その技一本で、日銭を稼ぐようになった。
しかし華やかな町の生活は性に合わず、犬彦は町はずれの山中で生活するようになった。
そうして十年が経つころ。町の女たちの、自分を見る目が変わってきた。それはふいに天狗面を外したとき。娘たちは熱に浮かされたような顔つきで犬彦を見つめる。
17歳。犬彦は美しい青年へと成長していた。
野菜や米やかんざしなどを、よくもらうようになった。また突然長屋の中へ引き込まれ、裸の胸を見せつけらることもあった。かと思えば、一緒に死んでと刃物を突き付けられることもあった。
――女はよくわからない。
まだ率直に、自分とこの金で寝てくれと懇願してくる男たちの方が分かりやすいと思った。
犬彦にとって、女とは、母だ。あのあばら家で、父とむつみ合っては獣のように鳴き、子を産んでは鬼のように吼える、そして、娘を投げ捨て息子を売る、あの、得体のしれないモノ。
ある春の日、犬彦は武家の花見の席に呼ばれた。一曲、芸を披露してくれという。江戸詰めのさる大名の、その日は奥方や側室なども同席を許された盛大な催しであった。そこで、犬彦は月子と出会う。
月子はさる大名の側室だった。赤い毛氈が敷かれた席に、月子はお雛様のように身じろぎ一つせず座っていた。そうして薄く唇を開き、青白い顔でぼんやりと桜を見上げていた。客を熱狂させる犬彦の芸にも、まったく興味を示さない。ただ静かに、月子の周りだけが取り残されたように、静かに凪いでいた。高みにいるのに寂し気なその横顔に、犬彦は手の届かぬ月を思った。春の夜に儚くかげる朧月。
――なんとしても、こっちを向かせてやる。
犬彦はあえぐように、そう、決めた。
演目は最後の、蝶の曲にさしかかっていた。一匹の蝶の旅。想いあう二匹の舞い。そして死――。
犬彦は大量の白紙を千切った。千切って、千切った。その欠片を、二本の羽団扇で強く、仰ぐ。
無数の白い蝶が舞った。
そして焦がれたその女と、面越しに目が、合った。
――落ちてきた。月が、ここまで。
その後は記憶があいまいである。気づけば犬彦は、月子の腕を引いてがむしゃらに走っていた。月子の青い豪華な打ち掛けが、地に伏した桃色の花びらを蝶のように舞い上がらせた。
「よくもわたくしを攫いましたね」
犬彦の山小屋に落ち着くと、月子は静かに犬彦を睨んだ。犬彦はどうしてこんなことをしでかしてしまったのか自分でもわからず、面の中でひたすらにうろたえていた。と、そのとき。月子がうふふと笑った。耳をくすぐる、甘い調べだった。そうして月子は、幼子にするように、犬彦の頭を撫でて言った。
「よく、やってくれました。妖怪にさらわれるのは、美しい姫と決まっています。わたくしも、まだ捨てたものじゃないわね」
二人きりの、ささやかな生活が始まった。月子は精力的に家の仕事をこなし、童のように山の中で遊びたがった。そういうときは朧月のように儚げな印象は薄れ、少女のごとく強い輝きを放った。月子は気の赴くまま、くるくる歩き回る。犬彦は目が離せない。
「なぜ、帰りたがらない?」
ある夜、たまりかねた犬彦は月子にたずねてみた。
月子はまったく不思議な女で、変わった身なりをした犬彦を恐れないばかりか、むしろ、可愛がるようなところがあった。そうして素性も知らぬ男の家に、腰を落ち着けている。
「あら、攫ったのはあなたなのに。わたくしを家に帰らせたいの?」
「そうじゃない!」
思わず強く否定してしまい、犬彦はうろたえた。その様子を楽しむように、月子が笑う。そして、おもむろにその細腕を伸ばしてきた。
「な、なにをする」
「お顔を見ようと思って」
犬彦は板間から逃げ出した。犬彦はまだ、月子の前で面を外したことがなかった。なぜだか、外せないでいた。
深夜、小屋に戻ると月子がごうごうと泣いていた。胸が潰されるような、身もふたもない泣き方だった。犬彦は焦り、板間に突っ伏した月子の肩を抱え起こした。
「どうしたというのだ。何があった」
月子は長い黒髪を振り乱し、犬彦にしがみついた。
「こわいの。この世に何も残せずに死んでしまうことが。とてもこわいの」
犬彦ははっとした。
「――月子は病気なのか?」
「ええ、ええ、そうよ。もうずっと前から心を病んでいるわ。助けて、犬彦!」
「月子は死なぬ。天狗の俺が面倒を見る。天狗の秘薬は八百万の病に効くのだぞ。だから、月子の病も、きっと……」
犬彦は月子を強く抱きしめた。細く、折れそうに、けれど柔らかで熱い肉体だった。この世から失くしてはならないものだと思った。
「そう、助けてくれるのね」
月子の声が、低く、変わった。あっと思ったときには、月彦は板間に押し倒されていた。か弱いはずの女が、自分を逃すまいと押さえつけてくる。犬彦の天狗面が取り払われた。いまにも消えそうな行灯の火が、犬彦の美しい顔を浮き上がらせた。
「――ああ」
どろりとした、女の、欲望の声がふってくる。いつか聞いた響き。母の声。
絡めとるような強い視線で、月子は犬彦を見下ろした。髪が、闇の中で蛇のごとくうごめいて見える。
「わたくしは、赤子が欲しいのよ、犬彦。助けてくれるというのなら、わたくしにそなたの種をおくれ」
犬彦は怯え、身をよじった。けれど、ささやかな抵抗は、月子を喜ばせるばかりだった。
「月彦、なんてこと、あなたまだ女を知らないのね。恐れないで。みな、通る道です」
なまめかしい触れ合いが恐ろしい。犬彦はいますぐに逃げ出したかった。月子が犬彦の着物に手をかける。しかし、そのとき、月子の指先が震えていることに犬彦は気づいた。
「――え?」
月彦は月子を優しく抱き寄せていた。
「月子の思うようにすればいい。それでも俺は、月子が好きだ」
月子は力なく犬彦の胸に倒れ込んだ。ごうと喉が鳴る。そうしていつまでも泣き続けた。
寄り添って迎えた明け方、月子はぽつりぽつりと自分の過去を語りはじめた。
「わたくしのお腹には、赤子がいたのです。無事に生まれれば、後継ぎとなる男でした。けれど死んで産まれ、殿は、わたくしを役立たずだと仰せになりました。わたくしは女として生を受けたのですから、子を産み落とすのが仕事。事に大名の妻ともなれば、それが唯一の仕事と言っても過言ではない。なのにわたくしはもう、赤子を産める身体ではないそうです。妖怪の種ならばあるいはと期待したのですが、ごめんなさいね、無理を言って。ねぇ、犬彦。わたくしは何のために産まれてきたのかしら。殿はもう、わたくしを抱いてはくださらない」
死んだ月子の体を、犬彦は桜の根元に埋め終えた。この桜は月子のため、別の場所から植え変えたものだった。遊び人風の男は、犬彦が作業を終えるのを煙管をふかして待った。この家に来て、三日が経っていた。
「行こうか、犬彦」
遊び人風の男が立ち上がり、声をかけた。その背には、いつの間にかつやつやと輝く翼が生えている。犬彦の背にも、同じものがあった。板に羽をぬいつけて作ったまがい物ではなく、本物の翼が。
「どこへ行くのだ?」
犬彦が聞く。
「仲間のところへ」
と遊び人風の男、本物の天狗が、答えた。
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