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彼は執務室から窓の外を見ていた。
城の窓からは王都が一望できるようになっているが、彼が見ているのは空だけ。
下界は見ようともしない。そこにあるのは託された民の生活だから。
託されているのはとても重いものだが、今の彼にはなんの感情ももたらさない。
必ず守ると心に決めたのに結局守れなかった過去がある。
そんな自分がもっと大きなものをどうして守れるというのだろう。
(どうでもいい)
この国を動かしているのは、彼を玉座に押し上げた優秀な側近だ。大義名分の名のもとに、彼女を見殺しにしたのだから彼らが苦労すればいい。
実際に手を下したのが今の自分の妻となった女であることは知っているが、あの女に対しては不思議なほど怒りはない。
(余が殺したも同然だ)
この国では王はただ一人の妻しかもてないから、ジェダカインの王女がこの国の王妃となった瞬間、彼女は愛妾に成り下がった。
娘は一度も王女と呼ばれることなく、愛妾の産んだ子として親子ともども王宮の片隅へと追いやられた。王子ではなく王女であったから、王宮にとどまることを許したのが間違いだったのだろう。
少しでも手元に置きたいと願った自分の罪。
ノック音が響いたが、彼は空から視線を外さない。
近衛の騎士が戸を開け、来訪者を確認するといくつかの言葉を交わし出て行った。部屋には彼と来訪者のみとなる。
本来なら近衛騎士が王以外の命令を聞くことなどありえないが、この国の王は『側近の傀儡』であったから別に気にもしない。
「お久しぶりです。アルヴェール公爵です」
「……余を殺すのか。やっていいぞ」
「ええ?いやですよ」
王はやっと振り返った。
そこには記憶の中とは違う人物がいた
(ああそうだ、死んだのだったな)
「……エドワルドか」
「覚えてくれてたのですか。叙爵のとき以来ですね」
飄々としているが緊張しているのがわかる顔だった。
この部屋で宰相以外の顔を見ることが随分久しぶりだと気づいて、少し王の気持ちが彼に向いた。なにしろやることがなくて退屈している。
「何しに来た?いい加減に王として働けと言いにでも来たか」
「そういうのは宰相にまかせます。そうではなくて、……許可をもらいに来ました」
うさんくさい男である。あのくそ真面目な父親とは似ても似つかない。
「余の許可など必要あるまい。宰相に聞け」
「それがだめなんですよ、あなたでないと」
いぶかし気に視線を向けてくる王に、エドワルドは直立不動の姿勢をとったあと、
「お嬢さんを僕に下さい」
と深々と頭を下げた。
「………………は?」
ガーランド王はぽかんと口を開けた。
(一歩間違えれば首が飛ぶなぁ。……物理的に)
へらっと笑ったエドワルドは内心びくびくしている。
これは正念場だ。間違えてはならない。
「ええっと、ぼく若くして公爵家の当主になっちゃったでしょう?後継のあれこれで後回しになってたんですけど。周りが身を固めろってうるさいんです」
ほんと嫌になっちゃいますよね、とため息交じりに同意を求めるが賛同の意は得られない。
「でもまぁうちほどの階級になると生半可な女性じゃ公爵夫人なんて務まらないでしょう。なので陛下の娘さんならちょうどいいかなって」
「……お前は何を言っているんだ……」
「ですから、娘さんを僕に下さい」
王の顔がひきつっている。
(うわぁまじこわいかも)
服の中がじっとりぬれてくるのがわかるが、エドワルドは一気に畳みかけることにする。ここまで来たら行きつくところまで行くしかない。
「事後報告になっちゃって申し訳ないのですが、娘さんの方もこの話に乗り気でして。というか娘さんの方からグイグイ来られて、『あなたの奥さんにして』なんて可愛いこというもんですから、ついプロポーズしてしまって、いま一緒に暮らしてます」
嘘は言っていない。
だいぶ、意図的に、事情ははしょっているけれど。
「彼女ときたらすっかりうちの使用人たちを手なづけておりまして『奥様』なんて呼ばれてるし、夜中に薄着で僕の部屋に入り込んであげく寝落ちするし、バルコニーから庭に降りようとしては足をくじくし、ほんと目が離せないんですよ」
なにひとつ嘘は言ってないのでエドワルドの口は軽い。
「……おいエドワルド」
「はい?」
エドワルドは笑顔で王の言葉を待つ。心臓はばくばくとなり続けている。あらぬ場所がきゅうっと縮み上がりそうだ。いやもう縮み上がっている。
王は眉間にしわを寄せて言った。
「わけがわからん!余にわかるように説明せよ!」
とうとう王がキレた。
そこでやっとエドワルドは表情を改めた。
その場にひざまづくと臣下の礼をとる。王の視線が自分の一挙手一投足にからみついてくる。それだけで体が重たいことこの上ない。
「お許しいただけるのならすべてお話いたしましょう」
「……許す」
射るような鋭さを増した紫の瞳の前で、エドワルドは、
(この眼を見るのは随分と久しぶりだな)
と肝が冷えた。
王妃の遺体が発見されたとき、一緒にいたはずの王女の姿はなかった。……生きているかもしれぬとは思っていたが、王は探せとは命じなかった。
(生きていたとしても余が手元に置き続ける限り、あれは命を狙われ続けるだろう)
もし逆に敵の手にあるのだとすれば生殺与奪は自分の弱みとなる。その時はふたたび自分の手で大事なものを切り捨てざるを得ない。
「……生きていたのだな」
「アリアローズさまが逃がしたようです。自らをおとりとして」
「リアが……」
王の脳裏に切り刻まれた無残な彼女の死にざまがよみがえる。まるで拷問でも受けたかのようだと、誰かが言った記憶とともに。
彼女は自らは残り、どんな目にあおうとも王女の行方を口にしないことで娘を逃がす時間を稼いだというのか。
「あの子は誰に連れ出された。あれの周りには暗殺者の手引きをした裏切りものがいたはずだ」
「庭師です。王がアリアローズさまのために作らせたバラ園で働いていました。どういった経緯でそうなったかはわかりません、彼は先日亡くなりましたので。ただ王女はかの者の手により育てられておりました」
彼は娘の顔を覚えていない。生まれてすぐに一度顔を見たきりだ。それも嫁いだばかりの王妃の癪を恐れて、こそこそと間男のように通ったただ一度の邂逅。
自分の娘というよりもアリアローズの忘れ形見という感慨しかわかないのはそのせいかもしれない。
エドワルドは庭師が自分にあてた手紙を寄こしたこと、リタを引き取りに行った時のこと、彼女の置かれていた境遇を打ち明けた。
王の表情にははっきりと悔恨の色が浮かんでいた。
「庭師の男の最期のときに居合わせ、彼の手紙をつないできた看護の女によると、男は前アルヴェール公爵に接触したことがあると言ったそうです」
エドワルドの父である。
庭師の男はリタが自分の家で、自分の妻の悋気を被りながら育つことに不安を覚え、王の支持者であるアルヴェール公爵に打ち明けたのだ。
その直後、庭師の男はアルヴェール公爵夫妻が馬車の事故で亡くなったことを知り、自分のせいで暗殺者の手が公爵夫妻にのびたのではないかと思い込み、ふたたび口をつぐんだ。
「……しかし自分の死を悟った彼は、現領主である私にあて『王宮のもっとも美しいバラと、剪定されたその後をご存じですか』と手紙を寄こしました」
『王宮のもっとも美しいバラ』が、王に一番愛された王妃なら、『剪定された』ものとは失われた王女を暗示している。『その後』があるのは、王女が生き延びたことを示唆したのだろう。
彼には時間がなかった。事実、手紙を託したあと、彼はエドワルドに会うこともできず亡くなっている。
彼にできる選択は、目の前の看護の女に事実を託すことだけだったのだ。
「……その女は」
「王宮を辞して、わたしの邸にて王女の養育と教育に当たっております」
「信用できるのか」
「おそらく」
看護の女……フィシュリは、サリハリデ侯爵令嬢だった。訳あって実家からは勘当の身で王宮住み込みの下級の女官扱いで働いていたとエドワルドは告げる。
王の口から「サリハリデ……そうか」とつぶやきが漏れた。信用しても大丈夫だと思ったのだろう。
「その女から直接話をきけるか」
エドワルドは首肯した。そのつもりで今日彼女を同伴して、自分の執務室で待たせている。
「余が会えるように取り計らえ、エドワルド。決して王妃には悟られるな」
エドワルドの胸に熱いものが去来した。王としての命令を、彼から受ける日がこようとは……。
「承りました、……わが王」
エドワルドはふたたびその場で臣下の礼をとった。
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