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腕の中で眠る少女は目覚める気配がない。
羽のように軽いやせっぽち。走り回ったからだろう、生地の薄い彼女の服は汗と水でぬれて肌に張り付いていた。浮き出る骨と皮ばかりの体には何かで打たれたかのようなあざが浮かび上がっていて、彼女が受けた仕打ちの数々が語られずともわかる。
「まいったなぁ。さすがに九歳の子を妻にするわけにはいかないよね」
社会的に死にそうである。物理的にも殺されそうだし。
飄々としたこの青年、エドワルドは若くしてアルヴェール公爵にはなったが当に二十は超えている。いくら政略結婚がめずらしくないとはいえ、幼女趣味は断じてない。ないものはないのである。
「十三歳差、ありえなくはないけど」
三十三歳と二十歳なら問題なくても、二十二歳と九歳じゃ大問題だ。
「でもあんなに警戒されてちゃ連れ帰ることもできなかったし」
きつく閉じられた瞼を縁取るまつげは長さもばらばらでパサついている。その奥の瞳が薄い紫であることはすでに確認済みだ。それはこの国の王と同じ希少な色。そして現在の王太子が持ちえない色だ。
垢じみた顔は浅黒く、だらりと下がった手はかさついてところどころ切れて固まった血のあとがあり、彼女がいままで外で労働に従事していたことをうかがわせる。
最初彼女がこれほどまでに痩せていることに気づかなかったのは、サイズの合わない服を身に着けていたからだ。汗に濡れたことであらわとなったラインは痛々しいほど、こどもらしいふくよかさから無縁で、エドワルドは顔をそむけたくなった。
「色のついてない娘を自分色に染めるのは男の夢ですが、さすがに坊ちゃんがこんな頑是ない少女にそのような真似をなさるとしたら亡き公爵夫妻に申し訳が立ちません」
馬車に乗り合わせているアルヴェール家の老執事は真面目な顔でそう言ってエドワルドに軽くにらまれた。
「これは不可抗力だ、それと坊ちゃんはやめてくれ」
公爵家当主を坊ちゃん呼ばわりするのは、エドワルドが生まれたころからアルヴェール家を取り仕切っているこのダンテスくらいのものである。それにさらっと鬼畜なことも言っていた気がする。
「大体こんなひどい状況だなんて聞いてなかったぞ」
エドワルドは不快そうに顔をしかめた。
自分の笑顔が相手に与える印象を熟知しているエドワルドは、外ではさわやかな青年然としている分裏ではとりつくろわない。ついでに性格もよくない。
王の妻子、つまり王妃と王太子が住まう宮の庭にはその昔王が愛した女のために作らせた見事なバラ園がある。
そこで働いていた庭師が仕事の途中で倒れた。
とるにたらない些末事にすぎない。しいて言うならその男は大変腕がよく働きものだったので、代わりを探すのに苦労するだろうと、それだけのことのはずだった。
宮廷の下働きのため在駐している医者が言うには、もう助からないだろうとのことで彼は早々に家族のもとへ送り返されるのをまつのみだった。
彼の側についていた看護の女が庭師からの手紙をエドワルドに言づけてきた時も、残る賃金の精算や後釜についてだろうと重要視していなかった。だから夕方激務を終えた後、すっかり忘れていたその手紙にようやく目を通したエドワルドは後悔した。
(なぜもっと早く見なかったのか)
『王宮のもっとも美しいバラと、剪定されたその後をご存じですか』
病床の震える手で書かれたに違いないそれは、抱えている案件の中で重きをおくものであったのだ。
これを読めば王の側近のエドワルドが自分のもとへ来るだろうと踏んでいたに違いない。一介の庭師が彼に面会を求めるより確実に。
はたしてそれは正しかった。
エドワルドはすぐに医務所へ向かったが、男はすでに家族のもとへ移送されたあとだった。しかも道中に亡くなったと聞かされた。
エドワルドはあの日のことを猛烈に悔やんでいる。
平民にすぎぬ男の死。
手のつくし様がなかったとしても直接会話できなかったことが、悔やまれてならない。
エドワルドは自領への視察を理由に休暇を申請した。上に報告するのは、自分の目で確かめてからにしたいから、独断で動くことにしたのだ。
彼の手紙を届けてきた看護の女はその日のうちに王宮から姿を消させた。これでこのことを知るものは他にいないはずだ。
庭師の家はちょうどアルヴェール領へ向かう途上にあったので、未精算の彼の給料と慰労金を届ける名目でついでに彼が向かうことになったという体裁だ。
すべての根回しに時間をとられ来るのが今日になってしまった。
男の家はすぐに分かった。
死者が出たことを知らせる喪章が軒先につるされた家をおとなうと、陰気な目をした女が出てきた。エドワルドの表向きの来意を知るとすぐに愛想がよくなって、彼の笑顔の前にぽろぽろと必要な情報をよくしゃべった。
『あれは夫の不貞の子だ』
『薄情な子で父がなくなってすぐに家の財に手を付け出て行った』
『感情がとぼしく薄紫の目が気持ち悪い』
またもタイミング悪くこの手をすり抜けたことに内心舌打ちをしつつ、これ以上の長居は無用とさっさと辞去したエドワルドが、近くの森の中であっさりとリタに会えたとき少女は川の水を飲もうとしているところだった。
後ろ姿からわかるのはさびた銅のような色の髪だけだったから、瞳の色を確認しようと声をかけたところ……。
逃げ出した彼女は人に対する警戒心に満ちており、言動からいままでどんな扱いを受けたのかを悟ったエドワルドは痛ましく思った。
保護を申し出れば(もとよりそのつもりで、どのように連れ出そうか思案していたのだが)なんと彼の妻にしろという。
裏のない善意などありえない、ということをこの年にしてすでに身をもって知っているのだ。
エドワルドにできることは『諾』ということだけだった。数舜ためらいがあったが。
今は即刻、彼女をこの手に取り戻すことが大事で、事実彼女には成長に必要なモノが決定的に不足している。ムチで打たれたアザも気になった。
(あとに残らなければいいな)
価値は高い方がいいのだから。
腕の中で眠るのはこの国の運命を決定的に左右するもの。
「生きていたとは。それはそれで面倒なものだけど」
思わず本音が漏れた。
「ダンテス、彼女を受け入れるために屋敷を整えてくれ。それと……」
エドワルドは馬車の中で執事に次々と指示を出した。
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