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(なんだか体が浮いているみたい……)
リタは目覚めのとき、そんなことを考えた。
宝物のように、やわらかなもので全身をくるまれている。なんだかいい匂いもする。
「……わたしとうとう天国にたどりついたんだ」
安心したようにうっとりつぶやいたリタの声はひどくかすれていて、この天国に似つかわしくなく自分でも不快なほどだった。
「お目覚めになられたのですね」
天上にふさわしい、やさしい声音が自分にかけられたものだと気づいて、やっぱりここは天国だと思いを強める。だって彼女に優しくしてくれる人などいるはずがない。
「ここは……天国?」
のどがカラカラでそれだけ言うのにも苦労する。
「ここはガーランド王都にあるアルヴェール公爵様の別邸、タウンハウスですよ。今お水をお持ちいたしますのでそのままでお待ちください」
天国じゃなかったらしい。がっかりしたのと同時に、気を失う直前の記憶がゆっくりと表面に浮上してきたリタである。
(とんでもないことになってる気がするんだけど……!)
体に痛みは残っているものの、体のいたるところに医者の手当ての跡が見てとれる。しかも身に着けているのは、着ていることすらわからなくなりそうな柔らかな風合いの生地の服だ。
ごわついていた髪からも汚れが取り除かれ、寝ている間にくしけずられたのがわかった。
(どうして見ず知らずのわたしに)
もちろんあのとんでもなく見目麗しかった貴公子しか心当たりがない。
身を起こそうと手をつけば、手ごたえが心もとないほど柔らかい。
体を覆っていた布団は軽いのに温かくふんわりとしていて、自分をくるんでいた柔らかいものがこの上等な寝具であることを知りますます困惑するリタである。
水と食事を持ってきた女が、リタが体を起こすのにも苦労しているのに気づき手助けをしてくれる。
水はぬるかったが甘露のように甘く、リタは何杯もおかわりしてしまった。
差し出された椀とさじを受け取るとこれも遠慮なくかきこむ。とろりとしたスープのようなもので、からっぽの胃にじんわりしみた。
久しぶりの食べ物に体中が熱くなり、徐々に力がみなぎるようだった。
無我夢中でさじを運ぶ少女から、女は顔をそむけていた。
(人目なんて気にしない。食べられるときに食べておかないといけないんだから)
「目が覚めたみたいだね」
くすくす笑う声が聞こえたのは、ようやくリタが小さな鍋のスープを食べつくしたときのことだった。
脇に控えていた女がめくばせをして、リタからからっぽの器とさじをとりあげた。
それを未練がましく目で追ってしまったリタは、彼の横にいた男性が寝台の横に用意した椅子に青年が腰を掛けるまで目を向けさえしなかった。彼はそんな様子さえ面白がってくすくす笑っている。
(いやしいとでも思ってるんだ)
おなかがいっぱいになったとたん、羞恥心が頭をもたげる。やっと周りを見る余裕がでてきたのだ。
「ああ、口元が汚れてる」
青年が懐からとりだした清潔そうなハンカチを手に、
「……触れてもいい?」
と敬う様に尋ねた。
リタはうっとりとその顔面にみとれてぼうっとした。それから頷く。
彼はやさしくリタの口元をふき取ると、汚れたハンカチを後ろに控えている老年の男性に手渡した。
「あらためて自己紹介をしよう。ぼくはアルヴェール領の領主でもある公爵家当主のエドワルド=ガーランド=アルヴェール。君の未来の夫として名乗りをあげたのだけど」
覚えてる?
いたずらっ子のような目で言われて、リタは寝台の上で飛び上がった。
「えっあのっ」
「薄情だなぁ、あんなに紳士的にプロポーズしたはずなのに忘れちゃったの?」
飄々とそう言ってのけるエドワルドが、リタには胡散臭いとしか思えなくなっていた。
「あなた何歳?わたしがいくつに見えてるの?」
「僕は二十二歳。公爵としては若いけど将来性はあるつもりだよ。君は……そうだね、七歳くらい?」
「九歳!」
そりゃがりがりで成長が年齢に追いついてはいないけど、七歳はないだろうとリタは憤慨する。
エドワルドは笑って、
「いますぐ花嫁にしようなんて思ってはいないよ。大丈夫、じっくり待つだけの分別はあるから」
安心して、と言われても彼の視線に身の置き所がない。リタは自分の頬が紅潮しているのを自覚していた。
「わ、わたし帰る」
「どこに?」
リタはうっと詰まった。帰る場所なんてないのだけど、ここにいてはいけない。そんな気がする。
「君の養母は君の養育を放棄した。君がいける場所なんてないはずだよ」
リタは顔をゆがませた。事実は時として心をえぐる凶器になる。
「だからってあなたの世話になる理由にはならない」
「理由ならあるだろう?結婚するのだから」
リタはさらに赤くなった。
「だからね」
エドワルドはぐっとリタに顔を近づけた。
おかげで彼の完璧な配置の麗しき顔をまともに見てしまい石像のように固まってしまった。それまでと違ってこわいほどすごみがある。
「僕から逃げるなら容赦はしない。君は今日からここで暮らすんだ」
いいね?と言われてリタはコクコクと首を振った。
(自分の顔を武器にする人初めて見た!はっきり言ってこわい!)
よくできました、と笑顔に戻ったエドワルドは傍らに立つ老年の男を執事だと紹介した。
「アルヴェール家のタウンハウスで執事をしております。ダンテスとお呼びください、奥様」
ぶっとエドワルドが噴き出した。
リタはうつむいてぷるぷる震えた。
「ダンテス。……さすがにまだ奥様はないだろ……」
「では、リタさま、とお呼びいたします」
「お前絶対わざとやってるだろう」
主従コンビのやりとりにいたたまれない心地である。
「それから君の身の回りの世話をするのが彼女だよ」
先ほど水や食べ物を持ってきてくれた女性はフィシュリと名乗った。
ふっくらした体形で柔らかい動作もふんわりした笑みも慎み深く上品だ。リタの周りにいたのは農村の既婚者の女たちばかりだったので、洗練されたたたずまいにリタはほうっと目を奪われた。
(都会の女の人ってきれいだ……)
もしかしてこの人の恋人だったりするのかしら、とちらりとエドワルドの顔をうかがうが、そこから彼と彼女の関係を図ることはできなかった。
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