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 その日夜も遅くなって帰宅したエドワルドは、わざとらしいくらい慇懃な執事とこわばった顔のフィシュリの出迎えを受けて内心溜息をついた。 (ぼく疲れてるんだけど)  もちろんここで顔に出すようなへまはしない。外出着をダンテスに渡しながら、 「怖い顔だな。なにかあった?」 と軽く聞いた。 「フィシュリにまかせっきりにして悪いね。お姫様の機嫌はどうだい」 「どうだいでは困ります、坊ちゃん」  フィシュリに話しかけたのにダンテスから苦言をもらってしまった。 「ダンテス、坊ちゃんはやめて」  歩きながらぽいぽいと宮廷装備を放り投げていく。顔色一つ変えずそれを受け止めながら、ダンテスはついてきた。 「あなたの『奥様』のことですよ。もう少し気にかけてください」  わざと『奥様』などと口にするダンテスに、怒りの深さを感じ取ってエドワルドは嘆息する。  この頃仕事が忙しいのである。特にリタがこの屋敷に来て以来、彼の仕事は多忙を極めている。  人に任せられる仕事ではないため、彼の負担と疲労は大きい。 (引き取るんじゃなかったかなぁ。さっさとあの人に丸投げしとくんだった)  自分の部屋ではなく、書斎に入ると応接用のソファに腰を落とす。  さぁ耳の痛い時間の始まりである。  硬い表情のまま何も言わないフィシュリも気になる。 「使用人の間に旦那様を疑う空気が流れております」 (え、まさかの僕への不信感?)  使用人一同は、エドワルドがリタを連れ帰ったとき、自分たちの主人が哀れな一人の少女を救い上げたのだと理解していた。あの少女が未来の公爵夫人になるとはもとよりだれも思ってはいない。 「旦那様は、お金は惜しまないが教育は側仕えに任せっきり。リタさまと会話をすることはおろか顔を合わせることもない。これでは使用人が,『なにかある』と思うのも仕方がないことかと」  あの少女はいったい何者なのか。 礼儀も作法も知らない。 だれもがうらやむ生活をしているのに不満げな様子を隠しもしない。  今日など食事の時間にかんしゃくを起こす始末だ。 「使用人たちは彼女をどう扱っていいかわからないのです。みな声をかけることもせず、遠巻きに見ているだけ。いまリタさまが会話をするのは私とフィシュリだけなのです」  まさかそこまで孤立しているとは思わなかった。 責めるようなダンテスの目に、エドワルドはいつもの笑顔を作ることができなかった。不貞腐れた顔で言い訳する。 「仕方がないだろう。子どもなんて育てたことがないんだから」  それどころか弟妹もいない。両親はあれだけ仲が良かったのだからもう少し頑張ってくれればよかったのに。  天に召された両親を恨んでいると、これまで黙っていたフィシュリがはじめて口を開いた。 「リタさまと話をする時間をとってはいただけませんか」 「……話す?」 「毎日、食事の時間だけでも構いませんし、夜眠る前にほんの少しお話しするだけでもいいのです。お忙しいのは承知しております。ですがこのままではリタさまがおかわいそうです」  フィシュリはすでにリタのことを自分の妹のように思っている。 リタは人の悪意には敏感で、自分を守るために攻撃的になることもあるがそれ以外ではおとなしく、自分からいさかいを起こすような子ではない。 フィシュリの小言に顔をしかめるのもうとましく思っているのではなく、期待に応えることができない自分を恥じているからだとわかる。自分が相手を失望させているのではないかと、いつも周囲の反応を気にしているのがフィシュリには痛々しく見える。 「考えてみよう」  そうは言ったがエドワルドの胸の内にあるのは、リタに対する思いやりではない。使用人の間でリタの正体を詮索されるのが困るからだ。 (となると、ぼくがリタに好意を示さなきゃいけなくなるわけだけどそれはそれで面倒なんだよな……)  孤独な人間に手を差し伸べれば、全力ですがりついてくるだろう。 リタが自分に対しほのかな想いをよせているのはなんとなく察しているのでそれを利用するのは簡単だが、……のちのち面倒なことになりそうである。  うーん、と悩んでいる時間は意外と少なかった。  なぜなら不寝番をしていた使用人が、リタが自室にいないことを報告してきたからである。 彼女の部屋から物音がしたのでのぞくとバルコニーの窓が開いていて、部屋の主の姿がなかったのだという。 あわてて下を見れば、縛り合わせてところどころ玉結びにしてロープのようになったリネンが地面に落ちていたらしい。もちろんリタの姿は見えなかった。  ダンテスがすぐさま数人の使用人を集め、リタをさがすよう命じた。  フィシュリは真っ青な顔をして、 「どうしましょう!わたくしが厳しくいいすぎたから……」 とおろおろし始めた。 「君は教育係なのだから仕方ないだろう。ぼくは君にリタの機嫌をとれと命じたわけではないからね」  君の落ち度ではないというつもりだったのに恨みのこもった目で、 「そういうところが冷たいというのです!」 と叱られた。  エドワルドは肩をすくめて、着替えようと続き部屋の自室へ向かいかけた。 が、途中できびすを返した。 「どちらへ行かれるのです!?」  なじる様な響きを隠そうともしないフィシュリに、 「妻をさがしてくるんだよ」 と投げやりに言ったのだった。
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