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 リタは庭にある小さな池のふちにすわって、ひざから下を水の中に浸していた。  ひんやりと冷たい水が足の間をさらりと流れていく感触がくすぐったい。 泣きたくなるのは自分があまりにもみんなを困らせてばかりいるからだ。 毎日おなかいっぱいご飯が食べられて、きれいな服もきせてもらっているのに、幸せではない自分がうしろめたい。 (いっそ出て行けと言われた方がましだ)  使用人はみな困ったり呆れたりはするが、決してリタを粗雑に扱うようなことはしない。エドワルドの意に反することはできないからだろう。 (わたし、ただのわがまま娘みたいだ)  エドワルドとはあの日以来顔を合わせたこともない。 だけど朝早起きをして、馬車に乗って仕事に行く彼を窓からこっそり見るのがリタの日課だ。  笑顔がうさんくさく感じることはあったが、目の前にいたら緊張して真っ赤になってしまうくらいエドワルドはかっこいいのだ。遠くからならいくらでも見ていられる。 出勤姿をこっそり見送った後、ベッドに戻ってフィシュリが起こしに来るのを待つのだ。驚いたことに、お貴族の令嬢は使用人が起こしに来るまでベッドから出てはならないのだという。農村では家族の誰より早く起きて、井戸の水を汲んでこなきゃならなかった自分がそんな生活になじめるはずもない。 (常識が違いすぎる)  足を揺らして水しぶきをとばしているとからかうような声がした。 「今度は池の水を飲むのかい?」  リタは振り向かなかった。 いずれ見つかるとは思っていた。エドワルドが来たのは想定外だったが。 「いっとくけど王都の水だまりなんて、飲用に最も適さないからね。のどが渇いたならフィシュリに」 「わたしをバカにするつもりならすればいい」  硬い声にエドワルドは口をつぐんだ。 「……そんなの慣れてる。今更傷ついたりしない」 リタの言葉は裏腹だ。強がっているのに弱みをのぞかせる。 (暖かい場所や食べ物なんかじゃこの子をいやすことはできないんだな)  ようやくエドワルドはフィシュリが言っていたことを理解できた。  養母に(うと)まれ住む場所を失った幼い子どもは愛情に飢えていた。飢えることがなくても、それだけでは人は生きていけない。  エドワルドは彼女の体を池から引きずり出す。 晩餐用のドレスの裾はぐっしょり濡れて泥だらけの上しわも寄っていた。相変わらずその体はたよりないほど軽い。 「水に使ってたら冷えるだろう、もどろうか」  自分の声がやわらかいのがわかる。とりつくろってもなく、今の自分は素なのに。 「冷やしてたんだよ。……さっき脱出に失敗して落っこちてくじいちゃったから」  リタの言葉にエドワルドは肝が冷えた。 リタの部屋は二階とはいえかなりの高さがあるのだ。 「なんてバカな事するんだ。一つ間違えば大けがするところじゃないか!」 「平気だよ。田舎育ちを舐めないで。木に登って果実をとったりしてたんだから」  それは栄養をまんぞくにとれないリタの貴重な糧だったから。 手入れの行き届いたこの庭は観賞用のためのもので果樹がないことが残念だ。そうしたらあんな味のしない食事よりよっぽどよかったのに。 「君は……」 といいかけてエドワルドは言いなおした。 「ぼくはきみに怪我をしてほしくないだけだよ」  リタはのろのろと顔をあげて、エドワルドの疲労の浮かんだ顔に目を見張った。 (仕事……忙しいんだ。こんな遅くに帰ってくるんだもんね)  それなのに探しに来てくれた、その事実がリタの胸をじんわりとあたたかくさせる。 ほったらかしにされていると拗ねる気持ちがあったことに後ろめたい気持ちだ。 「みんな心配しているんだ。部屋へ戻ってくれるよね」  リタが返事をするより早くエドワルドは彼女の体を抱き上げた。お姫様を運ぶ騎士のようにその手つきはうやうやしい。 「いいよ!おろして!……ちゃんと戻るから」 「足を痛めたんだろう?歩けるわけないじゃないか」  それに言ったはずだ、とエドワルドはいつもの笑みを取り戻した。 「逃げるなら容赦しないって。君は約束を破るつもりだったんだから、これからはしっかり監視しないと」  リタはうっと顔をそむけた。  エドワルドが屋敷内に戻ると、ダンテスや使用人がタオルや着替えを手にあわててリタを取り囲む。  お湯につかりましょう、  医者を呼んできてくれ、  お部屋の暖炉に火を入れろ。  こんな深夜に自分のわがままなふるまいでみんなの手を煩わせることがあまりに申し訳なくてうつむくばかりのリタである。  自分は役に立たないどころか迷惑をかけている。 「ご、ごめん。……ありがとう」  少女の小さなつぶやきに使用人たちは動きを止めた。彼女から話しかけてきたのは初めてで、みんなが言葉の続きを待っている。  それに気づいたリタは、勇気をふりしぼって一気に言った。 「ドレスをよごしてごめんなさい!いつもお洗濯してくれてありがとう!ごはんはいつもおいしいけど香辛料は苦手!他のと一緒に食べるとごまかせるからってまぜちゃって台無しにしてごめんなさい!」  恥ずかしかったのか、エドワルドの胸に顔をうずめて隠れたつもりになっているリタに 集まった使用人が一人残らず身もだえた。  ツンデレ……!  ツンデレだ……!  うちの奥様可愛くない!? 「医者が来る前に風呂に入れて」 エドワルドは苦笑して、使用人の一人に彼女の体を預けようとする。離れるとき、ちょっと襟元の布をぎゅっと握って怯える仕草をしたリタにエドワルドも、 (ナニこのかわいい生き物) と心臓をわしづかみにされた気分になる。 リタは受け渡されようとしている相手の顔を見ると、ぎゅっと唇をかんで自分から手を伸ばした。  ちなみに相手はがっちりした体格の侍女だが、ふだんいかめしい顔つきなのに唇がふにふにと動いている。間違いなくこの侍女も小動物の可愛さに目覚めた。  大事な宝物を受け渡すように移動したリタは今度はその侍女の首にぎゅっと縋り付く。 (なんかくやしいのはナゼ……)  複雑なエドワルドである。  侍女は彼女の軽さに一瞬おどろき、笑顔になると、 「お体が冷えてますね。無茶はいけませんよ、奥様」 と労わるように言った。 「体を温めるにはスパイスティーがいいのですが、奥様は苦手でしょう?はちみつたっぷりのレモネードを用意しておきますからね」 「お部屋を暖めておきますからね、奥様!」  なぜか使用人がくちぐちにリタのことを『奥様』よびである。  きょとんと目をを丸くしたままのリタは「え、あの」と言いながら侍女によって素早く運ばれていく。ほかの使用人もそれぞれ自分のすべき仕事にてきぱきと動き始めた。  その場に取り残されたのは邸の主といつものように冷静な執事である。 「これはあとで深夜手当をつけませんと、『旦那様』」 「どうしてこうなった……」  エドワルドは呆然とつぶやいた。
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