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その日エドワルドが仕事から戻るとホールの隅でなにやら言い争う声が聞こえて、彼はまたか……とため息をついた。
「ですから奥様はそんなことなさらなくていいのです!というよりしてはなりません!」
「だってわたしができることって掃除とかくらいで!」
深夜の逃亡騒動以来。使用人ともすっかりうちとけたリタである。
(アレをうちとけたと言っていいのか悩むところだけど)
「どうしたの、リタ」
エドワルドが近寄れば、二人がそろって顔を向けた。どちらも不満顔である。
「旦那様!奥様の聞きわけがないのです」
「わたしだって何か役に立ちたいだけなのに仕事をとるなっていうんだもの!」
「奥様はいっぱい食べて大きくなるのがお仕事です」
「食べてるし!ちょっとずつ大きくなってるじゃない。十歳にもなったし!」
そう先日リタは十歳になった、のだという。
彼女の口からその事実がもたらされたのは誕生日から数週間も後のことだったので、ダンテスはじめ使用人たちはたいそう悔しがった。エドワルドにしても同様である。
(誕生日ならあれこれ買ってやれたかも)
エドワルドがリタのためにお金を使いすぎると、リタが嫌がるとフィシュリから聞いていた。彼女はものに執着をもたないらしく、しかもそれが贅を尽くしたものであるほど気後れしてしまうようだ。
パサついていた髪は、毎日ていねいに香油を塗り込みくしを入れる侍女の執念深さによってつやを取り戻していた。いたんでいだ毛先をそろえたらかなり短くなってしまった彼女の髪は、最初くすんだ銅の色だったのが今は赤銅色で光の加減によって金色にも見える。
薄紫だった瞳は少し色が濃くなり神秘的ですらある。あの養母は気味が悪いとけなしていたが、身なりが整うと印象が変わって高貴な雰囲気すら感じた。
じっと見つめられると視線を合わせ続けるのにも胆力が必要なほど。この目をもつ人物をエドワルドは知っている。
いまだ主人の目の前で不毛な争いを続けているリタの首根っこをつまむと、少女はむっとした。
「こねこじゃないんだ……ないのよ」
言い直したのはフィシュリの教育の成果だろう。及第点にはほど遠いが、エドワルドは目元を細めた。以前のようにリタのことを面倒だとは思っていない。むしろ愛おしさすら感じ始めている。
(妹がいたらこんなかな)
エドワルド自身も十代で両親を失っているから、リタはいまやたったひとりの家族のような気持ちだ。甘やかしてくれるような両親ではなかったが、娘がいたらきっと目じりを下げて可愛がったのだろう。
「リタ、君にお願いがあるんだ。僕の部屋に来なさい」
リタは紫水晶のような瞳でさぐるように見上げてくる。
(身長はまだ低いなぁ。でもドレスの丈が短くなったような)
「エドワルド、さまがわたしにお願い……?」
「うん。君にしかできないこと」
役に立ちたいと言っていたリタの気を引くためにそんな言い方をすると、思惑通りリタはぱぁっと明るく笑った。こんな風に笑うようになったのも最近のことである。
どうにも野生動物を手なづけたような達成感がある。
立ち話状態の彼らを出来る執事が叱りにやってきて、彼らはあわてて解散した。
(エドワルド様がわたしに頼み事ってはじめてだよね)
エドワルドの書斎でこうして向かい合うのも初めてのことで思わず口角がゆるんできてしまう。エドワルドが優雅なしぐさでお茶を飲むのを見て。リタもカップに口をつけた。ちなみに彼女のは少し冷ましてあるお子様用だ。
「君に教育係をつけることにした」
エドワルドの言葉にリタは首を傾げた。
エドワルドは、あー……と言いづらそうにしつつ、
「つまり、公爵夫人としての教養、というやつがあってね。結婚するにあたってリタにはそういったものを身に着けてもらわないといけなくて」
説明を続けるもやけに歯切れが悪い。
それを聞いたリタの目が徐々に大きく見開かれていく。ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「わぁっリタ!なんで泣くんだ!?」
「……だって、本当に奥さんにしてくれると思ってなかったから……」
エドワルドがうっと目をそらした。
もちろんこれはエドワルドの方便である。
だが目の前でほっとしたように泣き始めたリタにそれを告げるわけにはいかない。
彼女はいつかまた自分が居場所を失うことをおそれていたのだろう。
うしろめたさを笑顔に隠すのに、今日ほど苦労したことはないエドワルドである。
「来週から週に一度家庭教師が来る。それ以外の時間にもダンテスが領地の運営について話をしてくれるし、マナーに関してはこれまでどおりフィシュリが」
「エドワルド様の役に立つなら、やる。……わたし勉強したい」
前のめりになったリタに、エドワルドは怯まないように笑顔で武装した。
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