2.「ゼッタイ殺されると思った」

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2.「ゼッタイ殺されると思った」

 貴司と良夫は、当然のことながら海外旅行など初体験だった。海外旅行どころか、飛行機に乗るのだって初体験である。もちろん理系の二人であるから、どうしてこんな鉄の塊が空に浮かぶのだ、などという愚問を発することはなかったが、とはいえレールも何もないところを走る乗り物に乗るのは、あまり気持ちのいいものでもなかった。  フライトは、大韓航空機によるソウルは仁川(インチョン)国際空港経由のロス・アンジェルス行き。驚くなかれ、ソウルでの待ち時間が6時間半もあるため、全行程19時間45分の旅である。この時短の時代にほぼまる一日もかかるのかと驚いてはみたが、よくよく考えたら太平洋を横断するのだ、それくらいかかるのは仕方ないのだろう、とあきらめた。それよりも6時間半もの間、仁川国際空港でなにをしていればいいのか、ということのほうが、喫緊の懸案事項ではある。なにしろソウルでは空港外に出てはいけないと、旅行社から事前に強く言われているのだ。世界情勢に疎く、そういうところの常識も若干欠如しているふたりはそれを聞いて、きっと外に出たら警察に拘束され、最悪銃殺にされるのだ、と恐れおののいていた。  仁川国際空港ではもちろんそんな事件は起こらず、ただ普通に税関を通り、ただ普通に空港ロビーに着いた。拍子抜けした感のある二人だったが、とはいえこれから6時間半である。出発前から、なにをしようか、と二人で考えてはいたがけっきょく答えの出ぬまま飛行機に乗ったため、思った通りロビーのベンチに腰かけて、途方に暮れることとなった。まあ、ここでちゃんと予定を立てていて、隙なく6時間半を持て余さずに過ごすことができるほどの計画性を持ち合わせているのなら、大学で留年などしないはずだ。途方に暮れた二人の姿は、そのまま今の彼らを投影しているかのようでもあった。  ただ、こういう時に先に行動を起こすのはいつも良夫だった。それを知っているから和久も自分の不肖の息子を託したのかもしれない。良夫は言った。  「なあタカシ、こんなとこで座っててもしゃあないし、ウォーキングがてら空港内を歩いてみんか」  たしかに貴司もそれには賛成だ。なにしろ中部国際空港から仁川国際空港までのわずか2時間の飛行機の旅すら、日ごろじっとしていることのない貴司にとってはけっこうな苦痛の時間であったのだ。もちろんちゃんと大学の講義に出ていれば、2時間の拘束は日常茶飯事なのだが、貴司は授業に出ていないのだから、そんな経験は皆無である。  とはいえ、6時間半。そんな長い時間歩き続けるのは不可能ではある。そこで1時間交代で別々に歩いてみよう、ということになった。空港はけっこう混みあっている。せっかく座っているベンチを離れて、戻ってきたら座ることころがない、なんてことになっても事だし、そもそも二人そろって荷物を持って歩くというのは労力の無駄だ。どちらかが残って、荷物番をしなくてはならない。  「ほいじゃ、行ってくるわ。あとのことはよろしくたのんだぞ」  と、なにやら意味深な言葉を吐いて、良夫が先陣を切った。  「まったく、戦争に行くんじゃねえんだからさ」  人ごみにまぎれていく親友の背中に、貴司はそうつぶやいた。  「おーい、タカシィィィィィ」  どうやら知らぬ間に寝てしまっていたらしい。良夫の情けない声に目を覚ました貴司は、眼前に立つ親友の顔を見て驚いた。そこには半泣き状態の良夫がいたのである。  「え、いやいや、なに、どうした」  ひょっとしたら警察に拘束されそうになったのではないか、と不安になりふと腕時計を見ると、なんと良夫が出てからもう2時間も過ぎようとしている。いったいなにがあったのだ、と貴司もパニックになりながら、何も言えずにいると、良夫が言った。  「ゼッタイ殺されると思った」  勝ってくるぞと勇ましく、鼻息を荒げて1時間のウォーキングの旅に出たのは良かったが、当たり前ながら周りから聞こえてくるのはハングル語ばかりである。映画が好きで、暇さえあれば映画館に足を運んでいた良夫は、2年生になると暇でなくても映画を観るようになり、実はそのせいで留年してしまったわけなのだが、だから英語にはちょっぴり自信があった。聞いていれば、なんとはなしにわかるだろう、そう考えていた。しかしここは韓国だ。周りを見てみても、自分たちと同じような顔をした東洋人ばかりで、日本語ではなくハングル語が飛び交っている。ウォーキング開始わずか10分で迷子になった仔犬のようにキョロキョロうろうろしていたら、その挙動を不審に思った空港警備員に呼び止められ、詰問された。しかし良夫は、ハングル語はわからない。必死に英語で応戦しようとしても、パニックになっていてうまくしゃべれないし、そもそもそれほどの語学力もない。これからアメリカに語学留学、すなわち英語の勉強をしに行くのだ。しゃべれるはずがないのだ。これで会話が成立するはずもなく、だんだんイライラの様相を呈してきた韓国の空港警備員に腕をつかまれ別室に連れていかれ、2時間近くわけのわからない言葉で怒鳴られ続けていた、ということだったのである。  まあそれでよく解放されたなと思うのだが、良夫にしてもなぜ解放されたのかはわからないらしい。別室に連れていかれ、入れ代わり立ち代わりの空港警備員にそれぞれ怒鳴られ詰られしていたところが、突然ドアを開けて放り出されたそうだ。良夫は、  「おれがまったく言葉が分からなかったから、あきらめたのかなあ」  と言っていたが、貴司は、おそらく面白がってイジメられたということなのだろう、と思っている。真相はわからぬままだが、まあなんにせよ解放されてよかった、というところだ。  そばにあるテレビでは、何作目かはわからないが、映画「ミッション:インポッシブル」が韓国語の吹き替えで放映されていて、韓国語でしゃべるトム・クルーズのあまりの違和感に、二人は顔を見合わせて、気が抜けたような笑いを交わした。  その後はけっきょく残りの4時間半近く、最初に座ったベンチから動くことはなく、ようやくフライトの時間になった時は二人とももう疲労困憊、すっかり気力を失っていたのであった。
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