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3 決意
何時間ほど寝ていたのだろうか。
「ぱぱ、ぱぱ」
と呼ぶ妻の声を遠くに聞き、目を覚ました。
覚醒していく夢うつつの中で、おれは心からほっとした。よくあるだろう、悪夢を見てとても不安でイヤな気持ちになったが、目を覚まして夢だと知って、心からホッとするという、あれだ。そうだよ、夢だったんだよ、そんな馬鹿なことがあるわけないだろう、よかった、妻にも子供たちにもまた逢えるんだ。そう思って目を開けたおれは、心の底からガッカリした。やはりそこは実家のおれの部屋だったからだ。見ると学生服のズボンをはいている。ベッドから身を起こして部屋を眺めると、放り投げたスポーツバッグがそのままになって床に転がっている。妻がおれを呼ぶ声だと思っていた「ぱぱ、ぱぱ」という声は、母親がおれの父親を呼ぶ声だったらしい。
小学校入学のときに買ってもらって以来ずっと使い続けている学習机の上に置いてある置時計を見ると、時刻は午後7時を回ったところだった。学校を出てから実家に来るまでにだいたい2時間は経っていたはずだ。帰ってきたのが11時くらいだとすれば8時間寝ていたことになる。それだけ寝ればふつう頭も身体もすっきりするはずなのだが、会社に出勤しようと起きた時から感じていた腹痛はうそのようになくなっているものの、ここ数か月ほど悩まされている頭痛は、よくなるどころか若干痛みが増しているようだった。
おれはベッドの端に腰掛け、顔を手で覆うとこめかみを押した。頭痛のときはこうするのが一番気持ちがいい。ツボ押しの効果でもあるのだろう、ちょっとだけすっきりしたおれは顔から手を放して手のひらを見て驚いた。いや、手のひらだけではない。裏返して見てみた手の甲も、シミもシワもどこにもなく、日焼けで黒くなってはいるが、それでも透き通るような肌ではないか。これが17歳の、ティーンエイジャーの肌なのかと、思わず感心してしまった。
そこでおれは鏡を見ることにした。そういえばこっちの世界に来てからまだ一度も自分の顔を見てはいない。「こっちの世界」などと思ってしまった自分に若干驚きはしたものの、どれだけ若返っているのだろう、という興味の方がおれの今の関心ごとの最たるものだった。なにしろ17歳、人間の人生で一番輝く年頃だ。それはそれは珠のように美しい男子高校生が鏡に映ることだろう。まあ、ものはおれなのだから、肌がきれいになってはいても決して美しくはならないのだろうが、それほどの期待を持って、ということだ。夏というのにわざわざ冬用の詰襟の上着をタンスから取り出して着込み、首元のホックと第一ボタンは外したまま、自分の部屋の壁に掛けてある鏡の前に立って顔を映してみた。そしてその自分の顔を見て、あまりのことにへなへなとその場に座り込んでしまった。
服は高校生のものだ。学生服の上着を着て、ちょっと不良っぽくホックと第一ボタンをはずしてはいる。しかしその上に乗っかっている顔は、無精ひげを生やした紛れもなく55歳のおれの顔だった。
いやしかし待て、こんな顔じゃ、高校のクラスメイト達も先生も、おかしいと気づくはずではないか。いくらとぼけているとはいえ、おれの母親が、溺愛する自分の息子の顔を見間違うはずもない。つまりすべてを総合して考えると、どうやらほかのみんなには、おれは17歳のおれとして見えているのに、おれだけは自分の顔を55歳の顔として認識している、という回答に行きついた。55歳に見えるのは顔だけで、どうして手は若いのかとかちょっとしたツッコミどころはそこかしこにあるものの、もう今のこの状況自体が理不尽なのだから、多少のことは受け入れるほかない。
しょうがねえよな、と納得して立ち上がったときおれは、今の自分の姿が窓に映るのを見た。夏とはいえ時刻は午後7時半近く、もう外はうす暗い。部屋の電気はつけたから、窓に映る自分の姿をはっきりと確認することができた。そしておれはその姿を見て、納得したものがすべて元に返されるほどの衝撃を受けた。この日でもう何度目だろう。そうそうのことではガッカリしないぞと思っていたおれも、その姿には平常心を保てないほどガッカリした。
そこに映っていたのは、詰襟学生服をなんちゃって不良のように着込み、黒の学生ズボンと真っ白な靴下を履いた、紛れもない55歳のチョイ悪おやじだったのである。
普通の感覚なら、55歳のおばさんがセーラー服に身を包んでいるほうがザンネンと思うだろうが、実際はそうではない。55歳のおっさんが学生服を着ていることほどイタイことはこの世にないのではないかと思えるほど、痛々しかった。コントに出てくる志村けんのようだ。そしておれはベッドに身を投げ、うつぶせのまま声を上げて泣いた
20分ほどそうしていただろうか。人間、泣きたいときに思いっきり泣くとすっきりするものである。そのときのおれもそうで、泣いて気持ちが落ち着いてくると次第に頭もすっきりしてきて、うつぶせから仰向けに身体を反転させると、いろいろなことを思い出してみた。
水泳部に入って背泳ぎの選手だったこと。さっき担任のタモツが言っていた「次の大会」でおれは3位になること。いまの二年生のクラスが三年間で一番、クラスメイト全員が仲良くまとまっていたこと。おれはいつでもクラスの中心にいて、クラスメイト全員が大好きだったこと。そしてこのクラス自体が、大好きだったこと。
そこまで考えておれはガバッと身を起こした。17歳は腹筋力も強い。ましてや水泳部で背泳の選手だ。腹筋はシックスパックだ。上半身を起こした勢いそのままにベッドから飛び起きると、机の上に並んでいる教科書や参考書の間から、写真帳を取り出した。
当時のおれは、写真好きな父親の影響を受け、写真撮影にも凝っていて、当時はやっていたオートフォーカスカメラで人物や風景、野鳥などをたくさん撮っていた。手に取った写真帳には、そんなおれが4月の遠足の時に撮りまくった写真が何枚も綴じられているはずだった。
そして写真帳を開いた一ページ目にそれはあった。
B6版に引き延ばした大きめの写真には、ボーイッシュなショートカットのかわいらしい女子高生が一人で写っている。二年生になって初めてその存在を知った女の子で、当時のおれの女性の好みのすべてを兼ね備えていたのがこの、藤原(ふじわら)まゆみだった。
一年生の時に、違うクラスとはいえその存在自体にすら気づかなかったというほど控えめな子だったが、そのためこのかわいらしさをもってしても誰に目を付けられるでもなく、確かずっと彼氏はいなかったはずだ。そしておれはその彼女に、このクラスの最初のホームルームでひとめぼれしたのだった。
そんなに好きだったのなら声を掛ければよかったじゃないかと言われそうだが、実は二年生に進級した当初は、おれは別の子と付き合っていた。その子は藤原まゆみと同じ弓道部の女の子で、一年生の学祭のときに実行委員で知り合って、そこで意気投合し、気がついたら付き合っていた、そんな感じだった。もちろんおれは真剣だったし、楽しくもあったのだが、若気の至りというかなんというかで次第に熱は冷め、藤原まゆみと出逢ったときはもうほぼ壊滅状態に近かった。時を経ずして、けっきょくおれのほうから一方的に別れを告げる形で別れたのだったが、そんなタイミングでもあったし、同じ弓道部といううしろめたさめいたものもあって、せっかく同じクラスだったのに声を掛けられずに、授業中にただ見つめるだけの日々を過ごし、三年生になって別々のクラスになってしまった、というわけだった。
今から思えば、そんなウブウブな自分に腹立たしさすら感じるのだが、それぞ高校生、これぞ青春、ということなのだろう。
では三年生になってどうしたんだっけ、と思って当時を思い出そうとしてみたが、なぜかいくら考えてもどうなったか思い出せなかった。いや、藤原まゆみとのことだけではない、どれほどがんばって思い出そうとしても、高校三年生の時の記憶だけ、暗闇にポッカリ開いた深い穴の底にあるような感じで、思い出せない。大学入学以降の思い出は鮮明に思い出せるし、今こうして考えられないような事態で過ごしている、高校二年のときの記憶もはっきりしている。しかし高校三年生のときのことだけ、どうしても思い出せないのだ。ムリに思い出そうとするとまた頭痛が激しさを増す。触れてはいけないなにかなのだろうか。
あまりに頭痛がひどくなってきたためおれは三年生の時のことを思い出すのをやめ、写真帳を見返すことにした。そこには青春の一ページ一ページがはっきりと刻まれている。たしかこの写真帳は、結婚するときに実家に置いてきたのではなかったか。結婚して幸せな家族ができると、こうした青春の甘酸っぱい思い出を思い返すのが悪いことのような気がして、持っていくのをやめたのだった。だからこれを見るのはほんとうに久しぶりで、若かったみんながとてもまぶしく感じられた。そしてその中でもひときわ輝いていたのが、やはり藤原まゆみだったのである。
このときのおれの感情は、どう表現していいのかさっぱりわからない。さっきまであれほど落ち込んでいたものが、こうして高校時代を目の当たりにしたところで徐々に平常心に変わっていくのが自分でもよく分かった。若いパワーがおれに文字通り力を与えたのか、おれの頭がマヒしてしまったのか。身体の底からやる気がみなぎってくるようで、熱いものが指の先まで充満してくる感覚すらある。この状況を無理に受け入れようとしているわけでは決してなく、自然とそういう流れになっていったのだ。このままでは、おれはすっかり高校二年生のおれに戻ってしまい、55歳までの記憶をすべて失ってしまうのではないかと一瞬考えもしたが、どうやらそういうことはなさそうだ。つまり、ということは、あくまでも仮説だが、55歳のおれと17歳だったおれが、松田隆というひとつの身体で同居している、ということなのではないのか。55年という年月を費やして得た知識をすべて総動員して、もう一度高校生活をエンジョイできる、そういうことにほかならないのではないだろうか。
そこまで考えると、なんと驚くべきことに、心からワクワクしている自分がそこにいた。もちろん愛する妻のことも、かわいい二人の娘たちのことも、忘れたわけでは決してないし、愛しいという思いは不変である。しかしその思いを持ちながらも、高校生活に戻れることを楽しんでいる自分がいたのである。
おれはいてもたってもいられなくなり、叫びたくなる衝動をなんとか抑えつつ階下に降りると、おれの父親と母親が食事をしているところに乱入し、あっけにとられている二人を無視して、今日の晩御飯のおかずである唐揚げを、当時のようにどんぶり三杯の白飯でたいらげた。
このときおれは久しぶりに父親の顔を見たのだが、なんの感情も抱かなかった。父親が嫌いで無視する、とかそういうことではなく、普通に当たり前にそこに存在すべきもの、という感覚だ。あ、ちょっと若いな、と心のどこか遠くの方でちらっと思っただけだった。
どんぶり三杯も、17歳の身体には物の数ではなかった。あっという間に平らげ、当時そうしていたように大きめのマグカップになみなみと牛乳を注いで一気飲みをし、さらにもう一杯入れたカップを手に持つと、そんなおれの様子を、目を細めて見ていた母親に、
「ごちそうさん」
とだけ告げ、自室に戻ってこれからのことをしっかりとシミュレーションすることにした。
部屋に戻っておれは、牛乳の入ったマグカップを右手に持ったままベッドに腰掛け、ひとつ深呼吸すると牛乳をひとくち口に含んだ。そして一拍置いて口の中の牛乳を飲み干すと、今度はコップに口をつけゴクゴクと全部飲み干した。
まるでバリウムだよな、と自分で自分に苦笑してしまったが、とりあえずはホッとできたので、いよいよ明日からのことを考えることにした。がしかし、だ。
考え始めてすぐに、不安でいっぱいになってしまった。すなわち55歳のおれが、高校二年生の勉強などできるのか、ということだ。高校生活をするということは、恋に落ちてスポーツに励む、ということだけではない。いやそれよりもむしろそちらのほうが付帯工事で、本工事は勉学ではないか。能天気にワクワクなどしている場合ではないのだ。このままではすっかり落ちこぼれて、追試、補講の嵐に巻き込まれ、それでもついて行けずにとうとう落第、退学、なんてことにもなりかねない。恋だ、スポーツだ、藤原まゆみだなどと、うつつを抜かしている場合ではないのではないか。
そこでおれは試しに、学習机の上に並んでいる参考書の中から、背表紙に「数Ⅱ」と書いてあるものを手に取り、おそるおそるページをめくった。すると驚くべきことが起こった。しばらくパラパラとめくってちょっとずつ内容を斜め読みしたのだが、理解できるのである。
おれは、高校時代はそれほど成績が良かったわけではない。学年総数340人中300番前後だったということでもわかるのだが、ただ頭は理系脳であったことは間違いない。テストでも、社会や国語や英語は散々だが、数学と物理だけは学年でも上位の方をキープしていたものだ。たしかこの学年では、最後の期末テストで物理が学年一番だったはずである。それで300番というのだから、どれほど国語と社会と英語がひどかったかということにもなるわけだ。
ただ、本人の名誉のために言っておくが、それでも中学時代は英語だって国語だって成績は良かった。国語は朗読コンクールで金賞をとったこともあったし、英語などは特にずば抜けていて、中学三年間の英語のテストの平均点は99.3点、二年生の時の7度の定期考査のうち一度だけが99点であとは全部100点などという前人未踏の記録を打ち立てたりもした。おかげで英語の山元(やまもと)先生からはとてもかわいがってもらい、毎年一回行われる名古屋市の英語暗唱協議会にも三年連続で出させてもらって、最後の三年生の時にはみごと優秀賞をもらった。今だから言うが、三年生の時の、夏休みの英語の宿題の答えを作ったのはこのおれだ。しかしそんなおれも、高校に入るととたんに勉強についていけなくなり、まず真っ先に英語で落ちこぼれた。テストを返してもらってその点数に茫然自失となり、家に帰って号泣したことも一年生の時にはあったのだ。そんな中救いだったのが、数学と物理、というわけである。
ちなみに社会はというと、これはもう最初からあきらめていた。なにしろ小学生の時から、なにをどう勉強しても絶対に70点以上が取れなかったのである。暗記するだけじゃないか、と周りの友達も、おれの両親も言うのだが、それがまたプレッシャーになり、どうあがいてもムダだと知ったある時からまったく勉強するのをやめてしまった。するとどうなるか。もうこれは世にも悲惨な物語となる。
その当時の高等学校では、理系のクラスの社会という学問は、現代社会、日本史、世界史、地理の四科目から二科目選択となる。国立大学を受ける学生が、希望大学を受験する前の1月に受けなければならない「共通一次試験」(今でいう「大学入学共通テスト」)と言われるものがそういうシステムだからだ。二科目で100点満点ということになる。そこで学校側の対応としては、生徒の選択した科目をそれぞれまず100点満点で採点し、返す。点数のついた答案を受け取った生徒は、その点数を一科目ごとに2分の1にして、両方を合算して社会一教科の点数とするわけだ。
さて、そこでおれの場合だが、選択した科目は何を血迷ったのか、日本史と世界史であった。社会が苦手な生徒からしたらこの選択はあり得ないと驚きあきれることだろう。ライオンの折の中に裸で突っ込んでいくようなものだ。自分でもどうしてそんな選択をしたのかわからなかったが、まあ要するにあきらめて自棄になった、ということなのだろう。そしてテストの結果は如実だった。
まず百点満点で世界史と日本史のテストが返ってくる。もうすでにこの時点で悲惨な点数には変わりないのだが、ただ点数そのものとしたら二桁はある。しかしこれをそれぞれ2分の1するとあら不思議、二桁得点だったものが一桁になってしまうのである。これを悲惨と言わずしてなんと言おうか。
大幅に話がそれたが、要するに理系脳的にいうと、55歳の意識を持ちながら17歳の高校生の頭脳をも持つという先ほどたてた仮説が実証された、ということなのだ。
さあこうなってくるともう、おれが記憶している限りの普通の高校生生活は保障されたようなものだ。とすれば、楽しかった思い出だけではなく、後悔したり心残りだったりしている思い出も、そして成就しなかった藤原まゆみとの恋も、55歳の大人の叡智で楽しいものに変えることができる、ということではないか。この高校の校歌にもある。「あふれて湧く叡智」だ。
胸が高鳴った。どこかヨーロッパの田舎風の町にある教会のチャペルの鐘のように、荘厳な音でおれの胸は高くなり響いている。こりゃ明日から忙しくなるぞ。待ってろよ、藤原まゆみ、だ。
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