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1 異変
その日もおれはいつもと同じように、自宅マンションのすぐ横の公園から響いてくる、大量のクマゼミの大合唱で目が覚めた。東京のようにミンミンゼミでも鳴いていればまだ風情もあるのだが、おれの生活している名古屋市はこのクマゼミとアブラゼミが主流で、これはもう騒音公害といってもいいほどやかましい。だから、というわけでもないのだろうが、起きた瞬間からどうにも調子が良くなかった。昨晩ベッドに入るときは普段と変わりなかったはずなのだが、今はへその下あたりに鈍痛がある。痛みは、最初のうちはそれほどでもなかったが、周期的にキリキリと増し、時間とともに激しくなっているようだった。
いったいこの痛みはなんなのだろう。痛いからといって便意を催すわけでもなく、とにかくただ痛いだけだ。どうしよう、仕事を休んだほうがいいのだろうか。
「ねえ、ぱぱ、どうしたの、大丈夫?」
妻がおれに言った。
幾度目かの波が来て、最初よりもけっこう大きくなった痛みが襲ってきたちょうどそのときで、どうやら顔が苦痛に歪んでいたらしい。しかしおれは、妻に心配かけまいと、
「うん、まあちょっとお腹が痛いけど、大丈夫だよ」
と強がりを言ってそそくさと出勤した。
妻はいぶかしそうな、それでいてとても心配そうな顔をしていたが、そんな妻の顔をみるのがつらく、7階建てマンションの3階にある自室玄関ドアをあけて外に出ると、そのまま振り返りもせずに最寄り駅へと向かった。
今から思えば、それが妻と話した最後であった。それを思うと心残りでしかないが、そのときのおれは、まさかこのあとあんなとんでもないことが起こるなどと思いもしなかったし、仕事に行けばこの痛みも和らぐだろう、そうしたら心配かけた妻にケーキでも買って帰ろう、くらいにしか考えていなかったのだ。しかし意に反して痛みは激しさを増していった。しまいには、一歩一歩足を踏み出すたびに下腹部に激痛が走り、駅に着いた時にはもう一歩も動けなくなり、プラットフォームのベンチに腰掛けてひとりで痛みに耐えなければならないこととなってしまった。
時刻は午前5時40分。駅に人影はまばらで、おれの異変に気付いているものはいないようだ。薄情なもんだよ、と痛みに耐えながら思ってはみたが、自分が他の乗客と同じ立場だったらきっと見て見ぬふりをするだろう。しょうがねえよな、そう思って苦笑いをしようとしたその時、その日最高の激痛がおれを襲い、あまりの痛みに一瞬息が詰まったその瞬間、まるで大地震が起きたかのように地面が揺れたかと思うと、おれはその場に昏倒した。
薄れる意識の中、なぜか実家の近所にある印刷工場のにおいを感じ、懐かしい気持ちになっていた。
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