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 「タカシ、おいタカシ、起きろって。おい」  そう言われて目を開けると、おれの視線の先にクラスメイトの山田一朗(やまだいちろう)がいた。冗談みたいな名前だが間違いない。こいつは山田一朗、あだ名はジローだ。  深い眠りから覚めたかのようにゆっくりと、机に突っ伏していた頭を持ち上げ顔を上げると、おれの目の前に仁王立ちしている担任の物理教師、川本保(かわもとたもつ)と目が合った。普段は温厚で冗談のひとつも言わない、超がつくほどマジメな38歳独身なのだが、生徒がなにか悪さをするととたんに豹変、鋭いスイングでビンタをくりだす鬼教師の一面も持つ。そのビンタは生徒の間ではタモツチョップと恐れられていたが、たいがいそういうときは生徒のほうが悪いのだからだれも文句は言えないし、物理教師らしくいちいち言うことも理にかなっていて反論できず、だから生徒からは誠実な教師として人気があった。  そのタモツが目の前で、半笑いで立っている。ヤバイ、こういう顔の時のタモツはマジでヤバイ。タモツチョップだ、そう思って身構えようとしたとき、なぜか穏やかな声でタモツは言った。  「おい松田、お前なあ、次の大会に向けて、夏休み前に朝練でみっちり泳いでくるのはいいが、学生の本分でも、少しでも上を目指して頑張ってみろよ。一時間目の授業から机の上によだれでプール作ったって、そこでは泳げやせんぞ」  驚愕だった。そんなによだれをたらしていたのかとか、そういうことではない。あのタモツが、あの物理学教師の川本保がこんな冗談を言うなんて、想像もできなかったからだ。しかしそのひとことで教室は、当たり前のように爆笑の渦に巻き込まれている。なんかヘンだぞ、これって本当におれのクラスなのか?明倫高校2年6組って、こんな感じのクラスだっけか……。  そしてここでおれはもう一度驚愕に打ちのめされた。いやまて、いったいこの状況はなんなんだ、おれはいったい今どこにいるんだ。思い出したぞ、たしか数分前に家を出て最寄り駅のフォームのベンチで腹痛と戦っていたはずだ。それがどうして今、高校二年の時の教室でよだれまみれで寝ていたのだ。なにがどうなっている。なんだこれは!どこなんだここは!  もうパニックだった。周りを見回すとバスケ部キャプテンの米本がいる。野球部の林もいる。一年から三年までずっと一緒のクラスだった森下もいる。まぎれもなくこれはおれの高校二年の時の教室じゃないか。そして窓際の一番後ろのこの席は、これまたまぎれもなくおれの高校二年の時の自席じゃないか。どうしてなんだ。  つい今しがた、タモツの一言で笑い声が響いていた教室は、おれが気付いた時にはすっかり冷え切っていた。どうやら、目を見開いて慌てふためいて席を立ち、みなの顔を一人ずつ覗き込むようにしていたおれの奇行で完全に引きまくっているようだ。おれを起こしたジローなど、椅子を倒して後ずさり、いまや彼のもうひとつ隣の、駒田の膝の上に座ってふたりで抱き合っている。  そんな状況にふと我に返ったおれは、それ以上立っていることもできず、崩れるように自分の席に腰掛けた。  「おい、だいじょうぶか?熱でもあるんじゃないのか?どっか悪いのか?」  そう訊ねるタモツに、  「大丈夫じゃないです。帰ります」  とだけ言うと、通学用に使っていたマディソン・スクエア・ガーデンのスポーツバッグを肩にかけ、よろめきながら教室を出た。  「おい、ほんとに大丈夫なのか?一人で帰れるのか?」  後ろでそう叫んでいるタモツに返事をする気力はもうどこにもなく、人気のない廊下をよろよろと下駄箱に向かった。後ろからは、おれの教室の爆笑が聞こえてくる。おおかたタモツがまたさきほどのような冗談でも言ったのだろう。信じられないことばかりだった。  下駄箱までの道のりは、果てがないのではないかと思えるほど長かったが、道順は間違えなかった。  おれの2年6組の教室は、東校舎3階のいちばん東のはずれにある。そこから5組、4組、3組の前を通りすぎ左に曲がると下に降りる階段がある。2組と1組は、左に曲がらずに階段を通り過ぎた向こう側だ。その階段を14段下がって踊り場でいったん折り返し、さらに14段下がって2階に降りると、目の前左手に下駄箱がある。そこがおれたちの学年専用の下駄箱で、一年生と三年生はもう一度階段で階下に降りた一階、おれたちの真下にある。  下駄箱は一人にひとつのロッカー形式で、鍵のかからない扉を開けると真ん中に間仕切りがしてあって、上の段に上履き、下の段に外履きがちょうど入るくらいの大きさである。それが縦8段、横6列をひとまとまりとした、鉄板でできた大きなタンスのようになっており、おれの学年、音楽科を含めた全7クラス分がそこにずらりと並んでいる。  おれは自分の場所からいつも履いているナイキのスニーカーを取り出すと、おれたちの年代の色である青色のスリッパを脱ぎ、履き替えて外に出た。  ここまでの流れはとてもスムーズだ。まるでいつもそうしているかのように、当たり前のように条件反射で動いている。あの時の記憶を呼び起こして、下駄箱の場所を思い出し、ということではないのだ。理由はまったくわからないが、もうおれは55歳サラリーマンのおれではなく、高校二年生、17歳のおれに戻ってしまっているのか。それを考えるとなおさら気力を失った。意味が分からない。そして愛する妻の顔が思い浮かぶ。愛しいふたりの娘たちの笑顔も浮かんでくる。泣きたい気持ちになるのを、しかし頭は55歳のおれが思いとどまらせた。ここで泣いている場合ではないのだ。よく映画で観たあり得ないようなことが、今現実におれの身に降りかかっている。これは映画でも何でもない。紛れもない現実なのだ。ならばもう割り切るしかない。おれには55年という経験がある。とにかくこの状況を打破して、元の世界に戻らなければならない。映画の中のヒーローは、こんな困難な状況下でも、いつでも機転を利かして元の世界に戻っていたではないか。そうだ、おれは様々な映画のシーンを参考にして、この困難を乗り切るのだ。そして絶対に元の世界に戻ってやる。“アイル・ビー・バック”、だ。  とはいえやはり身体はキツイ。鉛のように重い。とりあえずどこか休めるところがほしい。とにかく帰ろう。そう思った。  さてしかし、だ。いったいどこへ帰ればいいのだろう。おれの現実の世界での自宅は、名古屋市役所のそばにあるおれの高校の目の前の私鉄駅から、電車一本で20分ほどのところにある。母親のいる実家は、その私鉄駅ではなく、学校から徒歩5分ほどのところにある地下鉄に乗り、乗り換えを一回含めて約40分のところにある。悩ましいところだが、あわよくば、ひょっとしたら、そういった一縷の望みにすがりつきたい一心で、愛する妻のいる、愛する家族のいる自宅に向かうことにした。しかし結果は目に見えていた。  10年前(おれが過ごしていた世界での話だが)に新築で名古屋市守山区喜多山に購入したおれの住むマンションは影も形もなく、マンションがあるはずの場所は完全なる空き地だった。周りの道路も整備されてなく、雑草がぼうぼうと生い茂っている。ちらほらと新築の一戸建てが見えるが、それはおれがよく知っている古ぼけた一軒家の、真新しい姿だった。  当然そこには妻の姿はないし、よく考えれば、そもそもいたとしても16歳の女子高生のはずだ。どうのしようもならない。だから、次はおれの実家でなく同じ名古屋市内にある妻の実家に行こうかとも思ったのだが、それはやめた。なんと説明する?おれは将来きみと結婚するんだけど、ひょんなことで未来からやってきてしまいました、つきあってください、とでも言うのか?いやいや、そんなことを言ったら速攻変態扱いされて、追い返されるか警察を呼ばれるかのどちらかだ。もちろんおれには説得する自信もない。だから次はやはり、おれの実家に向かった。  もしこの世界が本当におれの17歳の時の世界なら間違いなく実家は存在するし、母親も、そして一昨年亡くなったはずの父親も健在のはずだ。そのほうがストーリーとしては、間違いなくつじつまが合う。だからもう一度私鉄に乗って高校に戻り、今度は地下鉄で実家に向かった。  実家は名古屋市名東区にある。地下鉄の一社(いっしゃ)という駅から北へ800メートルほど歩いたところだ。そしておれは数十分後、見慣れた実家の前に立ち、近くの印刷工場のにおいを感じながら、玄関の扉を開けようかどうしようか逡巡していた。  10分ほどそうしていただろうか。こんなことをしていても始まらない、ええいままよ、とばかりにドアノブに手を伸ばした途端、勢いよくドアがこちら側に開いて、危うくぶつかるところで身をひるがえして避けた。おお、さすが17歳だな、とちょっぴり感動したのもつかの間、そこにいる若かりし日の母親の姿を見て、今日何回目かの驚愕を受けた。  それはそうだ、その時のおれの母親はギリ30代だ。今の年齢の半分なのだ。実際のおれよりはるかに若い。あまりのことに立ちつくしていると、とつぜんその若い女性がおれに抱きつき、よかったぁ、と言って泣き出した。  いやいや待て待て、おれの母親はこんなキャラだったか。やさしくはあったが、もっと教育ママゴンだったはずだ。こんなお嬢様お嬢様などしていなかった。まさか別人か、と思ってへばりつく彼女を引き剥がして顔を見てみたが、まぎれもなくおれの母親だった。おれが引き剥がした、という行為がよほど驚きだったのだろう、おれの母親は一瞬ハトが豆鉄砲を食らったような顔でおれを見つめたが、またすぐにおれに抱きつき言った。  「学校から電話があって、あなたの様子がおかしくなって帰ってしまった、って聞いたからもう心配で心配で、さっきから親戚じゅうに電話してそっちに行ってないかって聞いてたのよ。よかったぁ無事で……」  おれの親戚は、父方も母方もすべて愛知県外にいて、だから時間的にも金銭的にもそんなところに行けるはずもないのだが、パニックになっていたということを差し引いてもこうしてちょっととぼけたところは、やはり間違いなくおれの母親だ。そして母親だと確信すると、おれはとたんに17歳のおれになった。すなわち、ウザい。男子高校生は総じて自分の母親をウザいと思っている。はずだ。おれの55年間で培った見解では、そうだ。だから仕方ない。キャラは全然違うものの、あの当時のウザさとほぼ同じ匂いがした。しかもここは玄関先だ。このままではご近所に見られて笑いものになってしまう。そこでおれはもう一度母親を引き剥がすと、  「うっせーな、かんけーねーよ」  と言い残して玄関を入り、スニーカーを脱ぎ捨てて2階の自室に向かった。後ろでは母親が、  「またそんなこと言って。ほんとに大丈夫なの?ご飯は食べるのよね」  と言っている。ショックを受けていないところを見るとおれの反応は正しかったようだ。そして自室のドアをバタンと閉め、持っていたスポーツバッグを荒々しく床に投げ捨てると、ベッドに身体を放り投げた。そしてそのまま、闇に吸い込まれるように深い眠りに落ちた。
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