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4 藤原まゆみ
翌日、おれは高校時代の自分のベッドで、大量のアブラゼミの大合唱で目が覚めた。
ずっと悩まされているひどい頭痛は、おさまることなくあったが、ただ、昨日55歳として目覚めた時のような身体の不快感はどこにもなく、次第に脳が覚醒してくると、またあのワクワク感がよみがえってきた。そしてあわてて跳ね起きると、当時そうだったように歯は磨かず口をゆすいで顔を洗い、水をつけて寝ぐせを直した。朝食は取らずにガムだけ噛んで、母親の作ってくれたずっしり重い弁当を持って家を出たのだが、その弁当の重さに、あることを思い出した。
おれは水泳部で背泳の選手をしている。大会の近いこの時期は、一週間のうち月水金は朝練で早めに登校し、ひと泳ぎしてから授業に臨んでいて、当然それ以外にも毎日、昼休みと授業後に練習をして、多い時は一日で10キロメートル泳ぐなんて日もざらだった。17歳だからなせる業なのだが、とはいえそれだけのカロリーを消費するためにはそれと同等かあるいはそれ以上のカロリーを摂取しなければならない。すなわち、おれの弁当が重い、というのはそういうことだ。
普通の生徒の弁当だと、弁当箱がひとつあって、ふたをあけると間仕切りがしてあり、たいがい上部におかず、下にごはん、という様相となっている。しかしおれの弁当箱はそうではない。普通よりやや大きめの弁当箱の一面に、ぎっしりとごはんを詰め、もうひとつやや大きめの弁当箱にこれまたぎっしりとおかずが入っているのである。そしてそれを2時間目が終わった後の休み時間に部室でたいらげ、昼は昼で、購買でパンを買って食べるという生活だった。もちろん家に帰ればどんぶり三杯である。55歳のおれがこんなことをしていたらあっという間に成人病になってしまうが、さすがの17歳、これが普通なのだ。
もちろんこれはおれだけではない。おれの他に5人いた男子水泳部の仲間はみんな同じようなものだ。仲の良かったキャプテンの花村健一(はなむらけんいち)とはよく話をしたが、その中で忘れられないこんな話がある。
花村の中学三年の妹がませたことにデートをすることになって弁当を作っていったそうだ。妹くんにしてみれば、人生初デートである。気合を入れて一所懸命弁当を作り持って行った。しかしまずかったのは、その量を自分の兄を参考にしたことだった。デートの中盤、さあお弁当食べよ、となって妹くんが大きめのカバンから弁当を取り出したのだが、次から次へと出てくる弁当箱の数々にデート相手が驚きあきれ、
「どこのバカがこんなにいっぱい食うんだよ!」
と言い放ってしまったそうだ。
おれは、それも無理はないと、逆にその相手の方に同情してしまったが、妹くんにしてみれば、自分の大好きなお兄ちゃんを侮辱されたようで面白くない。
「なによ、ウチのお兄ちゃんだったらこれでもたりないくらいだわ!」
と言い返し、並べた弁当箱を全部カバンに戻して、あっけにとられている男をほったらかして帰ってきてしまったそうだ。
言うほうも言うほうだが、帰ってしまうほうも帰ってしまうほうで、おれは大いに笑ったものだった。
さて、そんなことを思い出しながら地下鉄一社駅の改札を入り、東山線から名城線を乗り継いで8時13分、地下鉄市役所の駅の階段を上り外に出た。
するととんでもないことが起こった。
外に一歩足を踏み出したとたん、おれの周りを女子生徒が取り囲んだのである。
「松田君、今日はわたしと一緒よね」
「なに言ってんのよ、今日はわたしじゃないのよ」
「まちなさいよ、あんた先週一緒だったじゃない」
口々に叫ぶセーラー服の集団に取り囲まれ、おれは面食らった。
いや確かにおれは、高校時代はモテないわけではなかった。どちらかというと先輩や後輩からとてもちやほやされたものだ。ウチの高校には普通科ともうひとつ音楽科があり、一クラス40人前後の音楽科は女性の園だ。一学年上のその女性の園にはおれのファンクラブがあったことも認識してはいる。しかしおれの記憶では、こんなに積極的に、奪い合うかのようにおれを取り巻く女子は存在していない。
しかしおれの思考回路が正常に作動していたのもここまでだった。17歳のおれは55歳のおれでもある。こんなに女子にモテるなど何年振りか。この状況を楽しまない手はない。10人近くの女子の集団が、イワシの群れのように移動していくその真ん中で、おしくらまんじゅうのごとく揉まれながら鼻の下をのばしていると、正門まであと50メートルほどというところで始業のチャイムが鳴り始め、おれは我に返った。
まずい、このチャイムが鳴り終わるまでに正門をくぐらなければ遅刻になってしまう。おれの通う明倫高校は、遅刻三回でアウトだ。すなわち、親が学校に呼び出され、親子そろって生活指導室で注意を受け、その後おれは校長宛てに謝罪文をしたためなければならない。そしてさらに、向こう一週間のトイレ掃除専任者に任命されるのだ。そんな屈辱を受けるわけにはいかない。しかしこの女子たちは、遅刻という事態が招く恐ろしい結末を知っているはずなのにいっこうに場所を空けようとしない。デレッとしていたおれもさすがに焦り、「ゴメンネ」と言って目の前の女子を押しのけて、正門に向かって一目散にダッシュした。
昨日の朝にこのわけのわからない事態になってから、おれは初めて思いっきり走ったのだが、こんなに身体が軽いとは思いもしなかった。走るというよりも、おれの感覚では空間をすべっている、という感じだ。生活指導の豊島(とよしま)が、正門の向こう側で仁王立ちし、半笑いでこちらを見ているが、その豊島の顔がみるみるうちに近づいてきて、それに伴ってヤツの半笑いも苦痛の表情に変わり、間一髪のところでおれは1.5メートルほどの高さの正門が締まりきる直前に飛び越えたのだった。
55歳でも現役で草野球をやっていたおれは、たしかに年に何回かは盗塁もするし、打った打球が外野の頭を超えれば、一塁を回って二塁、あるいはその次の塁へと全力疾走はする。しかしその時でさえ、こんな感覚はない。まさにすべるように飛んでいた、という感じだったのである。しかも息もきれていないではないか。
こりゃあすごい、とちょっと感動すらして後ろを振り返った時、おれはある違和感に気づいた。
あれほどおれを取り巻いていた女の子たちはどこに行ってしまったのだろう。本来ならおれより遅いわけだから、間違いなく遅刻だ。他校の生徒ではない。彼女たちが着ていたのはまぎれもなく、明倫高校の夏用セーラー服だった。いまごろ豊島にこってりと絞られていていいはずなのだ。しかし彼女たちの姿はどこにもない。あるのは、ガックリと膝に手をつきうなだれている豊島の姿。いや、それはそれでどうかとも思うのだが、その時のおれは、煙のように消えてしまった女子たちのことのほうが気になっていた。
正門が閉まるのは8時20分だが、各クラスでのホームルームは8時30分からだ。教室に行くまで10分の余裕がある。その10分で今のことを考えてみようかとも思ったのだが、しかしやめておいた。この世界をエンジョイしようと決めた時、おれは同時に、不思議なことがあってもいちいち深く掘り下げるのはよそう、と決めたのだ。考えたってどうしようもない、こういう世界なのだ。こういう世界なら、こういう世界に合わせて生きていくしかない。なるようになるさ、そう心でつぶやいておれは下駄箱へと向かった。
ほかのクラスメイト達はもうすっかり教室にいるのだろう、だれもいない下駄箱でスリッパに履き替えると、自分のクラスに行こうと廊下に出て右に曲がった。すると予期せぬ出来事がおれを待ち受けていた。
なんとおれの目の前に、あの藤原まゆみが立っていたのである。
セーラー服姿で後ろ手に手を組み、左足を右足の前にクロスさせる形でにっこり笑って立っている。おれはどぎまぎした。このわずか一日の間でおれの中で藤原まゆみはほぼアイドル化されてしまったのだが、その彼女がおれの前で、女神のようにほほ笑んでいる。しかも思っていたよりもはるかにかわいいではないか。身長は155センチメートルそこそこか、彼女の頭のてっぺんがだいたいおれの顎のあたりにある。そこからあのかわいらしい丸っこい顔の、これまたかわいらしいやや大きめの丸っこい目で上目遣いに見上げられれば、世の男どもはすべてKOされること間違いない。女神というよりも天使に近い。そしてその後の彼女の言葉で、おれはまさにキューピッドに恋の矢で心臓を射抜かれたように、二度目のひとめぼれをした。
彼女は言った。
「松田くん、ジャンプかっこよかったよー」
一瞬にしておれは、自分の顔が真っ赤になるのを感じた。
まてまて、おれは若く見えるが55歳だ。いや、みんなには17歳に見えているかもしれないが、おれ自身は55歳なのだ。はずだ。そんなおれが、ここでこの17歳のいたいけな少女に骨抜きにされるわけにはいかない。そもそもこれほどの歳の差は、おれの側からすればもうすっかり犯罪ではないか。
しかしそんな強い思いも、こうして実物を目の前にして実際に声を聞いてしまった今では、なんの意味も成さなかった。
「お、おう、ジャンプ」
などととんちんかんな言葉を発したあと、おれはふらふらと教室に向かった。そのおれのあとをついてくるように、うしろで藤原まゆみのスリッパが廊下とこすれる音がしている。そして彼女は言った。
「よかった、いつもの松田くんだ。きのうはなんかちょっとヘンだったもんね」
おれはそれに答えることができなかった。今のこのおれが、いつものおれなのかということもあったが、それよりも、きのう教室でパニックに陥り、どうみても不審者にしか見えない行動をとって騒いでいたとき、この藤原まゆみもそこにいたのだ、という事実を認識してしまったからだ。
恥ずかしいやら、心配してもらってうれしいやら、けっきょく自席に着いてもおれの胸は鳴りっぱなしで、それどころか1限目の授業が終わって2限目が始まり、2限目の授業が終わって部室で弁当を食べるときもおさまらなかった。
「どうしたタカシ、顔真っ赤じゃねえか。熱でもあんのか」
部室で一緒に弁当を食べていた花村が心配そうにおれに聞いた。
「いや、熱はないんだけどな」
「藤原さんとなんかあったんか。よかったらまた相談に乗るぞ」
おれは驚いた。花村が、どうしてそれを。いやしかし、ということは、だ。以前にもおれはこの花村に、藤原まゆみのことを話しているのだ。
なんかホッとした。この世界に来て初めて自分の味方を得たような気がした。いや、実際そうではないか。この世界でのおれはこの花村を大切な友人として、いろいろと悩み事を相談していたのに違いない。そして藤原まゆみへの思いも打ち明け、ひょっとしたらいろいろと力になってくれていたのかもしれない。
そこでおれは彼の話になんとか合わせることにした。
「そうなんだよ。今日ギリで学校に入ってきてな、下駄箱でスリッパに履き替えて廊下に出たらあの子がおってさあ、なんかドキドキしちゃって、ロクに顔も見られんかった」
「ほれみろ、おれがあれだけ告白しろって言ったのにせんからだわ。おれの情報網は的確で正確だ、って言っとるだろ」
「情報?なんだそれ」
おれの言葉に花村はちょっと驚いたように顔をしかめて、強めの口調で言った。
「なにをいまごろ言っとるんだ。あの子もお前に気があるんだって、弓道部のやつに聞いてきた、って言ったじゃないか」
そうだったのか。本来ならまた聞きの情報は鵜呑みにはできないところなのだが、こいつの真剣な顔を見ればどうやら信頼はできそうだ。そもそも17歳のおれは、この男自体を信頼していたようなのだから、疑う余地などない。ならばどうしておれはすぐにでも告白しなかったのだろう。それが17歳という若さなのだろうか。
まあしかし、そんなことを考えても仕方ない。問題は簡単なのだ。いや、問題などないに等しい。楽勝だ、告白すればいいだけの話ではないか。ただやはり「断られたらどうしよう」という不安な気持ちもあるにはある。おれは花村に言った。
「ほんとに大丈夫なのか?お前の情報、間違いないのか?断られでもしたら立ち直れんぞ」
花村はそれを聞いてポカンとした顔をし、言った。
「はあ?お前なにを言っとるんだ。お前らしくもない。こないだは『当たって砕けろだ』て言ってたじゃないか」
そうだったのか。その気にはなっていたのだな。
そこでおれは、花村の情報の裏付けをとるべく、外堀を埋める作業に出ることにした。
いやヒドイやつだと我ながら思う。しかしなんかもうこのときは必死だったのだ。とにかく藤原まゆみをものにしたい、いやしなければならない。そんな使命感がふつふつと沸き起こり、なんでも利用してやれ、という気持ちになっていた。
その日の昼休みにおれは、藤原まゆみと同じ弓道部の女の子、そう、おれが一年生の時に付き合っていた女子に、藤原まゆみの真意を確かめてもらうよう頼みに行ったのだ。
普通のおれだったら、こんな奴は地獄へ落ちろと思うだろう。なにしろ聞きに行く相手は、つい数か月前に、自分が一方的にフッた相手だ。いたいけな17歳の多感な心にこの仕打ちは、ひょっとしたら一生立ち直れない痛手を負わせてしまうかもしれない。これが理由で男嫌いになって、一生独身を通し、女性の、いや人としての喜びを知らずに死んで行ってしまうかもしれない。それはわかっているのだ。わかってはいても、おれはどうしても我慢ができなかった。もうなにがなんでも、なにを犠牲にしても藤原まゆみと恋をしたい、その一心だったのである。
ところがおれのこの意に反して、彼女の反応は意外なものだった。
「あの、さ、ごめん、ちょっとたのみがあるんだけど」
おれはその子のところに行くと、そう切り出した。彼女の顔を見ることはできない。さすがに後ろめたさはある。すると彼女が言った。
「あ、松田くんじゃない。めずらしいね、あたしのとこに来るなんて」
いや、それはそうだろう、数か月前におれはこの子をフッたのだ。その後も普通に接していたら、それはそれでどうかしている。しかし続けて彼女が口にした言葉を聞いた時、おれは仰天した。
「話しするの、学祭以来じゃない?あの時は松田くんとは、なんかいい仲になったと思ったんだけどな、あたし。でも松田くん、学祭終わったらとっとと私の前から消えちゃったもんね」
なんということだ、この世界ではおれは、この子と付き合ってなどいなかったのか。
まあ、今見てもかわいらしい子ではある。眼鏡をかけているのだが、それが、今でいう「眼鏡女子」というやつか、やたら似合っていて、男好きのする顔立ちだ。顔は若干細長く、顎の線はシャープで、聖子ちゃんカット風の髪は肩まであり、髪先がセーラー服のセーラー部分にちょうど接するか接しないか。丸い目のわりに目尻が細長くネコを連想させるが、それがまた妖艶な感じで男心を誘う風貌である。背も160センチメートル以上はあるだろう、すらりとした美人だ。だがそれらはすべておれの好みとは真逆なのだ。それなのにどうして付き合っていたのか、いまこの彼女を見て一瞬不思議に思ったが、すぐに、なるほどと納得した。好みでないから元の世界では別れてしまったのだし、好みでないからこそ、こちらの世界では付き合ってすらいなかったのだ。よく理解できた。
「え、なに、どうしたの?」
返事ができなかったおれに、ちょっとびっくりしたように彼女が言った。
「あ、いや、すまん。えと、お願いがあるんだけど・・・・・・」
「うん、さっきそれ聞いた。なに、頼みって?」
「藤原さんのことでちょっと・・・・・・」
「ああ、なるほどね。なるほどなるほど」
「え、なんだよ、それ」
「まあ、知らないのは本人ばかりなり、ってね」
「な、なにを知らないって?」
「みんな知ってるよ、松田くんがまゆみのこと好きだっての」
おれは頭をぶん殴られた気がした。そうだったのか。そんなバレバレだったのか。
いやしかし待て、そうなると当の藤原まゆみもそれを知ってるってことなのか?それを問いたださねばならない。
「う、うそだろ。そんなわかりやすいのか、おれって。ていうか、そうなると話は早くって、藤原さんはおれのことどう思ってるのかなあ、って・・・・・・」
「ま、そうくるよね。ちょっと妬けるんだけどね。あたしだって松田くんのこと好きだったしね。だから教えてやんない。ちゃんと自分で聞きな」
そういうと彼女はくるりと振り返り、向こうを向いたまま右手をあげてバイバイと手を振ると、すたすたと去っていった。
まるで映画のワンシーンみたいだな、と思いながら、彼女のあまりのカッコよさに見とれてしまっていた。
いやいやそんなことをしている場合ではない。おれは一回頭をぶんと横に振って振り返ると、そこには小田秀春が、ニヤニヤしながら立っていた。
おだひではる。そうだおれは高校時代、この小田ととてもウマが合い、いちばん親しくしていたのだった。同じクラスだったぶん、花村よりもよく話していたはずだ。そして彼は、弓道部だ。大学時代の三浦につづき、救世主ここにも現る、だ。
小田は言った。
「なにをしてんだよ、タカシ。そんなことあの子に聞いたって、答えてくれるわけねえだろ」
すべてを見透かしたような小田の言葉に、ちょっとタジタジとなってしまい、おれは言った。
「いやまあ、それはそうだけど・・・・・・」
「ったくお前は。それでどうするんだよ。告白するのか?」
やはり小田も、おれが藤原まゆみのことを好きだということは把握している。ならば味方につけるのが得策だ。
「おう、する」
自分にも言い聞かせるように、ここではじめて宣言した。賽は投げられた、のだ。
「よし、なら行くか」
小田は言ったかと思うと、おれの左の手首を右手でつかみ、おれを引っ張って行こうとした。
おれはあせった。いや待ってくれ、たしかに宣言はしたが、いきなり本人に告白するというのはなにがなんでも無茶すぎる。なにをするにしても心の準備は必要ではないか。それをこんないきなりでは、とてもじゃないが藤原まゆみの前でまともに喋る自信もない。小田の申し出はありがたかったが、おれは抵抗しようとした。
小田はおれより背が低い。クラスでも低いほうだった。身長174センチメートルのおれに対しておそらく165センチメートルほどだろう。しかしさすがの弓道部だった。弓を弾く右腕の力は、水泳部のおれにも引けを取らないほど強く、このおれが引きずられるようにして廊下を連れていかれた。途中からはおれも観念して抵抗するのをやめ、しまいには小田について行く形となったのだが、意に反しておれが連れていかれたのは、2年1組の教室だった。
おれが藤原まゆみに告白するのなら、おれと藤原まゆみは同じクラスなのだから6組の教室のはずなのだが、なぜ1組なのか。だいたい小田よ、お前もおれと同じクラスだろう、と思ったところで思い出した。
そうだった、小田には一年生の時から付き合っている彼女がいて、その子が1組の生徒だった。そしてまたこの子もやはり、弓道部なのだ。
どうしておれの代はこうも弓道部が人気だったのかはまったくわからない。たしかに、スポーツとはいえおれの水泳部や、野球部、柔道部などのように汗だくになって体力を使い果たす、というような部活ではないから、女子でも、身体の弱い男でも、気軽にできるスポーツではある。まあ、実際やっている当人たちにしてみれば、気軽なもんかと言うかもしれないが、当時のおれたちの認識はそういうものであったし、だから女子が異様に多かったのだと、これは今でも思っている。
小田は1組の後ろのドアの前に立つと、教室内を見回して、一人の女子の名前を呼んだ。
「いくちゃーん」
小田が彼女を呼ぶ声を聞いておれは、とても懐かしい気持ちになった。このシチュエーション、そういえばよくあったな、と。そして郁ちゃんが振り向いたとき、おれはまたまた驚かされた。
いやこの子、こんなにかわいかったか。友達の彼女だったからあまり印象になかったのだが、改めて実物を見てみると、いやあこれはまた美人だ。
おれが付き合っていた子と同じく眼鏡をかけており、二人とも美人なのだが、この郁ちゃんは、なにせとびぬけて美人なのだ。眼鏡をはずすとおそらく17歳の女の子そのものの、若さあふれるかわいらしい子なのだと思うのだが、眼鏡をかけたことによって知的要素が増し、これがほんとに女子高生なのかと疑ってしまうほどの美人に仕上がっている。
おれは一度、大学時代にこの郁ちゃんと偶然会っている。一年生の夏休みが終わっての試験週間だったと思うが、三浦と食堂で食事を終えて、次の試験会場へ行くべく、トレイを持って出口へと急いでいた時だ。おれの前に突然女の子が現れ、危うくぶつかりそうになった。
「おっとぉ」
と言って、若さふれる反射神経で衝突を回避し、その子の顔を見てびっくりした、その子が郁ちゃんだった、というわけである。まさか同じ学校にいたとは思ってもいなかったおれは、
「あれ、郁ちゃん、同じ学校だったの」
と聞いたのだが、彼女はそれには答えず、ただおれの顔を見てほほ笑むだけだった。おれは急いでいたし、同じ学校ならまた会えるだろうくらいに考えて、
「ちょっと急ぐから、またね」
とだけ言って、その場は別れたのだったが、そういえばそれっきり郁ちゃんに会うことはなかった。ひょっとしたら近くの女子大に入学していて、たまたまウチの大学に食事に来ていただけだったのかもしれない。ただいずれにしても、その時の郁ちゃんの印象を思い出しても、これほどの美人ではなかったはずである。
しかし今ここにいる彼女は、まぎれもなくとび抜けた美人だ。大人としてのおれの目で見て、女優にしてもいいくらいの美しさである。そしてその美人が立ち上がってこちらへ歩いてくる姿は、まさにこれぞ日本美ともいうべき所作で、身長は165センチメートルの小田と同じくらいにもかかわらず、周りを圧倒するかのように優雅だった。
しかしまあ考えてみればそれはそうだろう。なにせ弓道部なのだ。日本古来の武道である。武道といっても格闘技ではなく、格闘技よりもさらにその様式美を重んじ、礼を尽くす。弓道部だからそうなのか、彼女だから弓道部なのかはわからないが、おれは思わず
「なるほど」
とうなってしまった。藤原まゆみといい、おれの付き合っていた子といい、そしてこの郁ちゃんといい、おそるべし弓道部、である。
郁ちゃんはその天女のような優雅さのまま歩いてくると、おれの前に立った。すべてを察しているかのような顔をしている。そしてこの彼女の眼でまっすぐに見つめられたおれは、心の底まで見透かされているのだと観念するしかなかった。
「まーったくマツダくん、まだそんなウジウジしてんの?とっとと言っちゃって、とっとと玉砕されちゃえばいいのに」
そう言って天女は、ちょっと小悪魔の影を見せてほほ笑んだ。
「え、ぎ、玉砕!?」
おれはあわてた。55歳のやり手営業マンだったおれが、顧客に対してこんなあわてている姿を見せるなどまったくもってご法度だったはずなのだが、どうにも相手がこの郁ちゃんでは、手のひらで踊らされているようにしか思えない。
「まあまあ、かわいそうだからイジメてやんなよ」
「マツダくん、いつも元気で堂々としてるのに、まゆみのことだと全然なんだもん、からかってやりたくもなるわよ」
藤原まゆみのことではけっこうおれはあからさまだったようだ。こうなってくると、さっきも思ったのだが、やはり、そもそも藤原まゆみがおれの気持ちを知らないはずはないのではないか。それでも進展してないってことはおれのことなんか気にも留めてないってことにならないか。こうしたみんなの反応を見ていると、どうしてもその思いが強くなってきて、おれはだんだん絶望感に押しつぶされそうになってきた。
「で、郁ちゃんどう、タカシは告白するべきだと思う?」
小田が言った。
「それ教えちゃったらおもしろくないことない?」
「いいじゃん、おれの友達なんだから、教えてあげなよ」
小田が助け舟を出してくれる。やはりいいヤツだ。
「そうねえ、どうしよっかなあ。ま、いっか。マツダくんはヒデくんの友達だし、まゆみはわたしの親友だしね。そうだね、告白しな。でもって、告白してあげな」
その言葉を聞いておれは、ほんの今まで感じていた絶望感が一気に消え去り、突如として足元から力が湧き上がってくるのを感じた。まあ、単純といえば単純なのだが、17歳の高校生などみんなこんなものなのだろう。好きといわれて有頂天になり、嫌いと言われて地獄に落とされるのだ。ただしおれは、本当は55歳なのだが・・・・・・。
とにかくおれは、郁ちゃんの「告白してあげな」という言葉に、千人分の力をもらった。そう、「してあげなさい」ということは、向こうがそれを欲しているということではないか。すなわち藤原まゆみは、おれからの告白を待っている、そういうことにほかならない。
一気に顔が緩んだのだろう、そんなおれの顔を見て郁ちゃんはちょっと呆れ気味に笑うと、両手でおれの両肩をポンポンと二回たたき、
「がんばってこい、青少年」
と言って、「いやまて、お前も青少年やがな」と突っ込む暇も与えず自分の席へ戻っていった。
おれはこの時ふと、この郁ちゃんに関してとても重要なことがあった気がしたのだが、思い出すことができなかった。それは、きのうおれがどうしても三年生の時のことを思い出せなかった事ととてもよく似ていて、ひょっとしたら三年生の時になにかあったのかもしれないのだが、それ以上は考えられなかった。
さあ、こうなればいよいよ決戦である。いつ告白するのかは細心の注意をもってタイミングを見計らわねばならないが、いずれにしても、早い方がいいのは間違いない。6組の教室に戻りながらおれは、小田とそんな話をして、万全の一手を繰り出すために授業後に打ち合わせをしようと決めて席に着いた。
不安でいっぱいだった事案において、その不安が解消されたためにおれはとても心が軽くなるのを感じたのだが、ところが自席についていざ授業、となったとき、せっかく心が軽くなったこのおれを、一瞬で動揺させるような事実が判明した。
なんかもう頭の中がバッタバタで、まったくそれまで気づかなかったのだが、じつは藤原まゆみの席はおれの席の右斜め前だったのだ。すなわち、おれが黒板を見ようとするとどうしてもおれの視界に藤原まゆみの後ろ姿が入ってしまう。そしてその、斜め左後ろから見る藤原まゆみの横顔は、これまたとてつもなくかわいかった。丸っこい顔を形成している彼女の頬は、過ぎないほどにふっくらしていてほんのりピンク色に染まっている。それでいて口の端はきりりと引き締まっていて、武道をたしなんでいる者の芯の強さも現れている。太くもなく細くもない首は、ショートカットの髪の裾から白く透き通るようなうなじをのぞかせ、おそらく弓道で鍛えたであろう程よい筋肉質の身体をセーラー服が包み込んでいる。おれは思わず見とれてしまい、授業どころの騒ぎではなくなってしまった。
言っておくが、決しておれは変態ではない。彼女のその後ろ姿をなめまわすようにしてよだれを垂らしているわけではないのだ。しかしおれの人生において、これほどまでにおれの好みに合った女性は見たことがなく、だからまさにおれにとっての女神なのである。彼女を見るおれの眼が、漫画のようにハートになってしまっていてもいたし方ないのである。
そんなことで、昼一の授業はまったく頭に入ってこなかった。国語の授業だったから、そもそも理系のおれにはあまり重要ではないのだが、ただしこれが国語でなく得意科目の物理や数学でも結果は同じだっただろう。逆に物理や数学でなくてよかったというところだ。
国語の授業終了のチャイムを聞いておれは、腹の底から大きく息を吐いた。ひょっとすると国語の時間中ずっと息をしていなかったのかもしれない。立ち上がる気力もなくへなへなと机に突っ伏したが、首から上は高熱でもあるのではと思えるほど熱く、耳から湯気が出ているかのようだ。
「なんだよタカシ、きょうそんなに暑いかよ」
と言ってとなりの席のジローが、うちわ代わりに下敷きでおれをあおいでくれたが、おれはなんのリアクションもできないまま、本日最後の授業の開始のチャイムを聞いた。
まあなんにせよ、泣いても笑ってもあと一時間。これが終われば藤原まゆみは部活に行き、とりあえずおれはその姿を見なくてすむようになる。そうなればようやく心も落ち着きを取り戻し、小田との秘密の会合に臨めるというものだ。おれは自分を鼓舞するように心の中で「おしっ」と力を込めると頭を上げた。その瞬間、藤原まゆみが席に着くのが見えたのだが、それを見ておれは、授業が終わってジローがおれの肩を揺さぶるまで意識を失っていることとなってしまった。
普通スカートをはいている女子は、椅子に腰かけるときはスカートをお尻の下に敷いて座る。背もたれがある木の椅子だから、スカートの裾が引っかからないよう細心の注意をはらって座るものだ。しかし藤原まゆみは、無造作に椅子に座ったその後、スカートの後ろの部分を両手の人差し指と親指でそれぞれつまみ、ふわっと後ろに投げかけたのだ。つまり今の藤原まゆみの状態は、椅子にじかに座っている、ということだ。その事実を知ってしまったおれは、となりのジローに
「ちょっと行ってきまーす」
と言って意識を失った、というわけだった。
授業は終わり、おれはジローに起こされた。(念のため再度言っておくが、ジローと言ってはいるが本名は山田一朗だ)おれ以外のクラスメイト達はみんな一斉に帰り支度をしている。そのままストレートに帰る者、部活に行く者、図書館に勉強しに行く者、みなそれぞれだ。そんなみんなを見ながらおれは、半ば放心状態で自席から動けないでいた。まあこのあと、小田とのサミットがあるわけだから動く必要もなかったのだが、なにしろまったく身体に力が入らず、身体を背もたれにもたれかからせ、足を投げ出し、両手をだらんと下にさげた状態で、みんなの様子を茫然と眺めていた。
しばらくして、小田が来て言った。
「どうした、ボッとして」
この小田の落ち着きは、おれにとっての唯一の心の支えであった。今のおれは、55歳のおれからは考えられないほどなにもかもに動揺し、なにもかもに自信を失っている。その時にこうして一人、頼りになる友がいるというのは、心底ありがたい。
この午後の2時間強ですっかりボロボロになってしまったおれはすっかり、迷子になってしまった仔犬状態だった。
「どうした、そんな迷子になった仔犬みたいな目して」
さすが小田だ。言い得て妙である。
「もうアカン、たすけてくれ」
藁にもすがる思いだ。すると小田が言った。
「修学旅行、どうするんだよ」
そうだ、忘れていたがおれの高校は夏休みの直前に修学旅行があるのだ。考えたらあと2週間で修学旅行ではないか。
修学旅行と学祭は、高校生活における2大イベントである。中でも修学旅行のほうは、多感なティーンエイジャーの男子と女子が一つ屋根の下で2泊を共にするというのだから、特別中の特別と言っても過言ではなく、だからおれたちは、この日を目標にして彼女なり彼氏なりを作ろうと日々努力していたのだった。もちろん、だからといって同じ部屋で寝るわけではないのは当たり前なのだが、ちょっと手を伸ばせば届きそうな向こうの建物に自分の好きな人がいると思うと、高校生はそれだけで興奮してしまう。そんな特別感を味わいたくて、だからおれたちはカップル成立を目指していたのである。しかし当時のおれは、その夢はかなわなかった。本当は藤原まゆみを好きだったのに、かなわなかった。とすれば、今こそそのリベンジのときがやってきた、というわけだ。
「そうだな、ボッとしてる場合じゃないな」
「そうだぞ。ここは一発、ビシッときめんといかんぞ」
「だな。でもどう切り出そう?」
「お前なあ、修学旅行だぞ。わかるだろ。ペアルックだって、ペアルック」
ペアルックだ。そうなのだ。おれたちが高校生だったころ、世のアベック(!)たちは、自分たちがいかに好き合っていて、いかに特別なのかを誇示するため、デートするときはまずペアルックだった。まあおれの55歳の世界では、ペアルックなどという言葉はとうの昔に死語となっており、今聞くととてもダサいのだが、要するにカップルコーデ、というやつだ。
つまり小田が言うのは、修学旅行でペアルックしませんかと誘え、ということであり、そのアドバイスのあまりの的確さにおれは小田の顔をまじまじと見つめた。どうしてこんなにもおれに協力をしてくれるのかとも思うが、小田にしてみればおれも藤原まゆみもクラスメイトなのだし、おれとは仲のいい友達だ。人間としてとてもいいやつだということであり、実際で言えばおれよりはるかに年下なのだが、ちょっとだけ尊敬の念を抱いた。
「おまえ、ほんとにいいやつだな。ありがとな」
おれはそう言ってスポーツバッグを手に取り席を立って帰ろうとすると、それまで笑っていた小田が突然ちょっと怒ったような顔になり、おれに言った。
「ちょっと待てよ、どこ行くんだよ。善は急げっていうだろ。今から言いに行かんでどうするんだ」
「いや、でももう藤原さんいないし・・・・・・」
「だから、なに言ってんだよ。部活に行ってるのに決まってるだろうが」
「え、部活に乗り込めって言うのか?」
「当たり前だ」
「それはまずいだろ。練習の邪魔したら怒られるって」
「もう、おまえはとことんだな。なんのためにおれがいると思ってんだよ。弓道部部長だぞ」
そういえばそうだった。小田はおれとは違って頭もよく人望も厚いから、クラス委員長でもあるし弓道部の部長でもある。いまのおれにとって、これほどの頼れる戦力はないのだ。
そこで意を決したおれは、小田のお言葉に甘えて藤原まゆみとのアポをセッティングしてもらうことにした。ここまできたら明日が今日でも同じだ。小田の言う通り、善は急げだ。まあ、藤原まゆみの答えがおれにとっての「善」ならば、ではあるが、ここまできたらもう疑う余地はない。こうまでしていろいろなことが重なっての、いまのこの瞬間なのだ。告白して断られるはずがない。自信は確信に変わりつつあった。お膳立ては整ったのだ。
「頼む」
と言ったおれに小田が言った。
「おう、じゃあ段取りしたら戻ってくるから、ここで待ってろ」
言い終わるとすぐに小田は席を立ち、弓道場に向かって走っていった。おれはその後ろ姿に思わず手を合わせた。
ちょうど15分後に戻ってきた小田に促されておれは、弓道場の裏に向かうとすでにそこにはあこがれの藤原まゆみが立って待っていた。
おれはここで初めて藤原まゆみの道着姿を見たのだが、あまりのことにその場でぶっ倒れそうになった。
真っ白な道着に、女子ならではの胸当てをつけ、黒の袴をはいている。髪はショートカットだから結わえる必要はなく、いつもの横顔で、後ろで手を組み、数メートル先の地面を見つめながら小石をつま先で蹴ったりして、ちょっとうつむき加減でたたずんでいる。
「か、可憐だ……」
思わず声に出して言った言葉はあまりにも昭和のセリフだったが、今のこの藤原まゆみの姿を形容するのに、これほどぴったりくる言葉はなかった。そもそもここは昭和の時代だ。
するとそのおれの声が聞こえたのか聞こえなかったのか、藤原まゆみがおれに気づきこちらを見ると、はじけんばかりの笑顔でおれに手を振った。
「おい、鼻血、鼻血」
小田の言葉にわれに返ったおれは、小田が差し出してくれたティッシュで鼻をぬぐうと、血のついたティッシュを小田に返し、両のこぶしを握り締め全身に気合を入れて、でもよろよろと藤原まゆみに向かって歩を進めた。
「ご、ごめんね、部活中に」
おれは言った。
「ううん、いいよ。話って?」
藤原まゆみはずっと笑顔を絶やさない。その天使の微笑みにまた勇気を得て、おれは言った。
「あの、修学旅行、もしほかに決めてるやつとかいなかったら、おれと、その、ぺ、ぺ、ペアルックしないかなあ、って」
してくれ、と言えないところがウブな17歳だ。55歳なのに・・・・・・。
「いいよ、しよ」
「だ、だよねえ、そんないきなり言われても、そんなんムリに決まって・・・・・・、て、え、いまなんて?」
もうここまでくると漫画である。おれはこんなベタなやつだったのかと、どこかで55歳のおれが冷静に見ているのだが、17歳のおれはまったく頭に血が上ってしまっていた。しかし藤原まゆみはあきらかにいま、おれの問いかけに対して肯定の意思を表明したのだ。めでたくカップル誕生、というわけである。
こんなにできすぎていていいのだろうかと、なにか不安にもなってしまうが、それとは別に、いやこれこそが運命なのだ、今の流れに身を任せよ、という声もどこからか聞こえてくる。これからどう転んでいくのかは見当もつかないが、とにもかくにもおれは、高校時代に果たせなかった、藤原まゆみとおつきあいする、というミッションをスタートさせたのだ。こんな喜ばしいことはないではないか。
「いや、その、おおきに」
喋ったこともない京都弁でお礼を言ったおれは、さきほどまでの緊張感はどこへやら、いまや有頂天になりつつあった。冷静になれ、冷静に、と思うおれはいるのだが、身体が言うことを聞かない。どんどんハイになってきて、しまいには藤原まゆみの前でガッツポーズまで繰り出す始末だ。
そんなおれをニコニコして見ていた藤原まゆみだったが、その笑いが次第に大きくなり、とうとう爆笑しだした。
おれは突然のことにようやく我に返り、藤原まゆみの顔を見返した。彼女は言った。
「あ、ゴメンネ、ゴメン」
とはいいつつも、笑いをこらえながらもまだ腹を抱えている。よほどおれの姿がおかしかったのだろうか。
「ほんとゴメン。えと、部活終わるまで待っててね」
必死に笑いをこらえるようにして藤原まゆみはそう言うと、おれに手を振って小走りに道場へと戻っていった。
さっきまで有頂天だったおれも、さすがにこうなるとわけがわからない。そんなにヘンだったのかおれ、と首をかしげながら藤原まゆみとは逆の、もと来た方向に歩き出すと、道着に着替えた小田が弓道部部室から出てきて、キツネにつままれたような顔をしているおれの顔を見て、言った。
「はぁ・・・・・・、鏡見て来い」
おれはわけがわからないまま、しかしこの恩人にていねいに礼を言うと、弓道部部室の横にあるトイレに入り鏡を見た。そしてあまりの恥ずかしさに、ガックリと肩を落とした。
そこには、左の鼻から左頬にかけて二筋の鼻血の跡がくっきりとついている、間抜けな55歳のおっさんがいたのであった。
さて、なんだかんだはあったが、とりあえず一歩前進したおれはここでようやく落ち着きを取り戻し、藤原まゆみの部活終わりを待つべく自分も水泳部の部室に向かった。
我が明倫高校のプールは、体育館と併設する武道館の屋上にあるという全国でも珍しい形だ。建物の内部が天井の高い武道場で、柔道部と剣道部が使用するために床半分には畳が敷いてあり、もう半分は板敷きになっている。そしてその真上にプールがあるというわけだ。
武道館入口の下駄箱でスリッパを脱ぎはだしになると、入口のすぐ横にある階段で中二階に上がり、部員がいてもいなくても「在室中」と貼り紙のしてある水泳部部室のドアを開けた。するとそこに、おれが来るのを待っていたかのように花村が座っていた。
部室と言ってもそんなたいそうなものではない。5人も入れば1人は立っていなくてはならないような手狭な小部屋だ。もちろん、色気の出てきた高校二年生は、部活が終われば髪をかわかし、中にはシャレてヘアートニックなんかをつけるやつもいるし、だからドライヤーと鏡は必需品で、加えて着替えができるというスペースは必要となる。ただし言い換えれば、それだけのスペースがありさえすればよいわけで、幅2メートル、奥行き4メートルほどの細長い空間がおれたちの部室として与えられた。もちろん女子の部室はまた別にあるのだが、そこは男子よりもはるかに広い。女子なのだから当たり前なのだろうが、その構造は、おれたち男子は知らない。知っていたら、それはそれで事ではある。
そんな男子部室の一番奥で花村は、上半身は裸、腰から下にバスタオルを巻いた状態で椅子に座って腕組みをし、こちらを見ていた。バスタオルの下はもう競泳用水着に着替えているのだろう。
「遅かったな。告白でもしてきたのか」
なぜ知っているのだと一瞬ドキッとしたが、よくよく考えてみれば、さっきの今でおれが遅れてくれば、頭のいい花村としてそう考えるのは当然かもしれない。いろいろ世話になったみたいだし、こいつにもちゃんと報告をせねばなるまい。
「お、おう、まあ、してきた」
すると花村は目を大きく見開き、興味津々というふうで言った。
「お、で、どうだった」
「とりあえず修学旅行のペアルックのオッケーはもらった」
「そっかあ、それはよかった。だからおれはずっと、言えって言っとったんだ」
「いやほんと、ありがとな」
「で、今後はどうするんだ」
「藤原さんの部活終わり待って、会うことになってる」
「お、さっそくかあ。まあ修学旅行までもう間がないからな。目立つペアルックにしろよ。みんな応援してんだからな」
「おう、あ、ありがと」
とてもいいやつだ。一年生のときからなにかとおれに話しかけてくれて、クラスは違うけれどいい友人関係を築けていたと思うが、これほどまでにおれのことを思ってくれていると知った今、こちらも感謝しかない。
花村は、ちょっと真面目な顔をしておれに言った。
「せっかく付き合うことになったんだからな、その『ふじわらさん』て『さん』づけはやめとけよ。女の子を呼ぶときは下の名前で呼んでやれ」
なかなかにませた提案をするなと思ったが、そういえばこいつも小田と同様、一年のときから付き合っている子がいたのだった。なるほどそうであれば、こうしていちいちアドバイスが的確なのもうなずける。
花村の彼女は同じ水泳部の「大山真紀(おおやままき)」といって、「まき」と呼び捨てにしていることを聞いたことがあり、うらやましいと思ったものだ。そうなるとおれは藤原まゆみを「まゆみ」と呼ぶのか。なにかちょっとむず痒い気がする。まあ当人の思いもあるだろうし、ただその提案だけはしてみようと胸に刻んだ。
考えれば17歳だろうが55歳だろうが、現金なものである。藤原まゆみの気持ちにあれほどまでに落ち着かなかったりパニックになったりしていたものが、いざオッケーをもらうとこうも余裕が出るものなのか。いったんこうして自分を客観視してみて、あまりの違いに思わず吹き出してしまった。
「なに笑ってんだよ。ほれ、泳ぐぞ」
そう言って花村は、部室のドアを開けて外に出ると、いったん深呼吸してプールへの階段を上って行った。
すれ違いざま左手でポンと叩いてくれたおれの左肩が、とても温かかった。
2時間後、部活を終えると髪を乾かすのももどかしく、半渇きのまま制服に着替えて、花村にひとつうなずいてから部室を出た。なんかはりきりすぎて、いつも以上に泳いだ気がするが、足取りは軽かった。
何時にどこでと約束したわけではなかったが、同じ校内だし、弓道場に行けばいいだろうと、外階段を下りていったんスリッパに履き替え、外履きを取りに下駄箱に向かった。
時刻は午後6時30分。7月とはいえ薄暗くなってきた校舎の中を走り下駄箱に着くと、そこに藤原まゆみがいた。
「あ、松田くん、おつかれー」
おれを見ると、満面に笑みを浮かべて、藤原まゆみが言った。
「お、おう、おつかれさん」
さっき弓道場で会ったときや、朝下駄箱で偶然出くわした時もそうだったのだが、藤原まゆみはおれを見ると必ずとびきりの笑顔になる。そして必ず自分から話しかけてくれる。これは意外だった。おれの彼女の印象は、控えめで目立たない子、であり、だからこそだれとも付き合わず二年生まで一人でいてくれたのではなかったか。それがいまこうしておれへの気持ちを前面に出してくれているのだ。印象の違いに戸惑う部分もあるが、おれにとってはうれしい戸惑いではある。
「おそかったねー」
ちょっと黙っていたおれに、一瞬だけ不安そうな様子を見せたあと、またいつもの笑顔になって、おれの顔を下から見上げて言った。
こんなかわいい子に下から見上げられては、二倍にも三倍にもふくれあがったかわいさオーラでノックアウト寸前だったが、あともうちょっとでダウンというところで、なんとか踏ん張ってこらえ、言った。
「あ、いや、ごめんね、遅くなって。待った?」
質問としてはベタだが、この時代ではこれが主流の挨拶だったはずだ。
「ううん、わたしも今来たとこ」
藤原まゆみも定型文で返してきた。
「ペアルックの件なんだけどね」
「あ、うん、『件』ね。ふふ」
なぜ「ふふ」なのかはわからないが、なにをしてもなにをしゃべってもかわいい。思わずギュッとしたくなるのを抑えて言った。
「とりあえずどうしよっか。場所移す?」
藤原まゆみの家は学校のすぐそばだ。正門から出てすぐ南側に広いバス通りがあるのだが、そのバス通りと正門の間にもう一本細い道がある。その細い道の北側に面したところに自宅があるのだ。徒歩1分という優良物件である。だから場所を移すと言っても学校近辺しかない。今なら花村に言えば水泳部の部室を空けてもらえそうだが、それはそれで味気ないし、いくら学校とはいえ、薄暗くなってきた中であんな狭い空間に二人っきりというのは、55歳の理性が阻む。
「そうだなあ」
と言ってちょっと困った顔をしている藤原まゆみに、おれは当時を思い出して言った。
「くるっと名城公園ひと廻りして話ししよ」
明倫高校は名古屋市役所の近くと言ったが、それすなわち、地理的に名古屋城の近くということでもある。そして名古屋城周りは「名城公園」という大きな公園となっていて、一周約1500メートルの遊歩道があり、そこをウォーキングしたりジョギングしたりする人がたくさんいる。おれたち水泳部も、冬場の陸トレはここがランニングコースになっていて、全盛期のおれは普通に一周4分ほどで走ったものだ。そしてそこは、夜になると様々なカップルの愛の語り場となるのである。夏などは数十メートル間隔でウチの高校生カップルが歩いている、なんて現象も起きる。当時の言葉で「アベックロード」などと呼んでいた。
「うん、そうしよう」
藤原まゆみはそう言ってにっこり笑った。薄暗い下駄箱で、そこだけが明るくなったようだった。
二人で下駄箱から外に出て、一階への階段を下りる。まるで花道のような階段を30段ほど下りきって、左側の校舎を迂回するように回り込んだ先に教員用の駐車場があり、その向こうが正門だ。どちらからということもなく、初めての二人っきりの時間をかみしめるようにゆっくり歩くと、正門を出て徒歩10分ほどの名城公園へと向かった。
おれにとっては陸トレで使用している場所なのだから、道順も勝手知ったるなんとやらであったが、藤原まゆみにはどうも初めての経験らしく、
「ええっ、こんなとこにこんな駄菓子屋さんあるんだ」
とか、
「へえ、この道ってこんなとこにつながってんだ」
とか言って驚いている。あまりに近すぎて知らないことのほうが多いらしい。よくあることだが、そうやってはしゃいでいる姿が、おれにとってはまたいちいち天女の舞であった。
そして遊歩道の入口に着いたとき、おそらくここに着いたら言おうと決心していたのだろう藤原まゆみが歩を止め、おれのほうに向きなおり、公園の案内看板を背にして言った。
「ね、松田くん、わたしね、ずっと松田くんのこと好きだったんだよ」
わかっていたことだった。ひょっとしたらもうずっとずっと前から、おれの中ではデフォルトだったのかもしれない。だからその事実に関しては大して驚きはしなかったのだが、それよりも、藤原まゆみがそれを口にしたということが、大きな驚きだった。そしておれはようやく安心することができた。しようかどうしようか、いやしなさいよ、などとすったもんだした「告白」という一大事はけっきょくすることはなかったが、藤原まゆみとつきあうという、長年の夢を成就させられたのだ。すがすがしい気持ちだった。叫びだしたい気持ちだった。いや、叫んでしまえ、と思って息を吸ったとき、おれはあることに思い当って息をのみ、そのまま固まってしまった。すなわち、ここでおれの積年の思いである、「藤原まゆみとつきあう」という大願が成就されたのであれば、ひょっとするとおれのこの世界での存在理由がなくなってしまうのではないか、と。
おれはあわてて口を両手でふさぐと、辺りを見回した。なにかへんな現象がおきてやしないか。あの朝のプラットフォームのように、地面がぐらぐらと揺れてはいないか。そして自分の身体も見下ろしてみた。おれ自身が消えかかっていないか。必死になって焦りながら、不思議な現象が起きていないかと見まわしつづけ、
「松田くん、どうしたの」
と心配そうな藤原まゆみの言葉で我に返った。そしてそのときおれが見たのは、きのうからほぼずっとおれの前で笑顔を見せていた藤原まゆみの、泣きそうな顔だった。
どうやらおれは消えることはなさそうだった。頭痛はずっとあるにはあるが、めまいはないし腹痛もない。消えかかってもいないし、いつのまにか近づいておれのズボンの右腰あたりをつかんでいる藤原まゆみを感じることもできる。そうなのだ、ここでやっとはっきりわかった。大願は成就したが、だからといって元の世界に戻れるわけではないのだ、と。
妻と二人の娘たちに二度と逢えないのはつらい。しかし今のおれには、ここで割り切って、もう一度人生をやり直すことのほうが大切だ。戻れる保証があるならそれを模索してみてもいいのだろうが、おれにはもう、戻れる術を見つけることは不可能のような気がした。いやそれどころか、ここでおれと藤原まゆみがつきあうことになり、別れることなく未来に進んでいったら、おれは二人の娘どころか、妻とさえ出会うことはなくなってしまう。未来は書き換えられてしまうのだ。もう元に戻れるはずがない。おれは腹をくくった。すると藤原まゆみが泣きそうな顔に必死で笑顔をつくって、言った。
「ゴメンネ、誘ってもらえたからてっきりわたし、松田くんの彼女になれるって早とちりしちゃって。そうだよね……」
もう愛しくて愛しくてしかたない。こんなかわいい子がこの世の中にいていいものか。いや、いいのだ。そしてその子がおれの彼女なのだ。
「ほんとゴメン、わたしがんばって彼女になれるように努力するね」
いや、頑張る必要なんてどこにもない。
「はずかしいな、わたし」
そう言って藤原まゆみは泣き出しそうなのを必死でこらえ、ペロっと舌を出してそれまでおれのズボンをつかんでいた左手を離した。
もうここしかなかった。彼女の気持ちはよく分かったし、おれの気持ちもゆるぎない。そう決心すると、55歳のおれが発動した。ここで勝負だ。
おれの袖口を離した彼女の左手のひらを、おれは自分の左手で包み込むようにして握ると、その手をおれの胸にあてた。おそらくおれの鼓動が彼女にも伝わっているはずだ。そしてそのままの状態でおれは自分の右手を、彼女の後ろの案内板にドンとぶつけるように当てた。
彼女は一瞬ハッとした表情を見せたが、おれの顔が近づくにつれ目を潤ませ、そして恥ずかしそうにうつむいた。おれは、彼女の左手を握っていた己の左手を離すと、その左手の人差し指と親指で彼女の顎をはさみ、うつむいていた顔を上にあげさせ、かわいらしい彼女の小さな唇に自分の唇を合わせた。おれの頭の中では、大きな花火がドンドンと何発も鳴り響いていた。
どれくらいそうしていただろう。おそらくものの数秒程度だったのだろうが、ちょっとの背徳感と大部分の高揚感でけっこう長く感じた。もちろんファーストキスであろう彼女は、おれ以上に長く感じたに違いない。それどころか、平成の風物詩、壁ドン・顎クイでとっくに我を失っているはずだ。
案の定、おれが唇を離すと彼女は腰が抜けたかのように、へなへなとその場に座り込んでしまった。暗くてもわかるほど顔が真っ赤になっている。おれはさらに愛しさが増し、そんな彼女をやさしく抱きあげると、数メートル先にあるベンチに彼女を座らせて、その左隣に座った。そして彼女が放心状態から目覚めたのは、それからたっぷり30分は経ってからだった。
「あ、あれ、ゴメン。あれ」
いったいこの子は今日、何回「ゴメン」と言うのだろう、と思ったおれは、右手で彼女の肩を抱き寄せ、頭をおれの肩に乗せてやった。またこんなことしたら興奮するのじゃないか、とも思ったが、どうやら彼女は落ち着きを取り戻したようで、そのままの姿勢で
「もう、だいじょうぶ」
と言った。
「あー、びっくりした。松田くん、いきなりなんだもん」
おそらくそうとう力を振り絞っての強がりだろうと思う。懸命に平常心を装おうとしている。そんな彼女がまたかわいくて、おれはどうしようもなくなってもう一度彼女を抱き寄せ、キスをした。しかし二度目の彼女はリラックスしていた。抱かれたおれの腕の中で身を任せ、そしておもむろに両手をおれの首に巻きつけてきた。
ファーストキスとは違う激し目なキスのあと身体を離したおれたちは、どちらからともなく声を上げて笑った。二人そろっての大願成就の、歓喜の叫びなのかもしれない。とにかく小さな幸せを感じていた。
「で、なんだったっけ、なんの話するんだったっけ」
ベンチに座ったままのおれの問いに、彼女も立ち上がることはせず答えた。
「ペアルック」
「そっか、ペアルックだったね。えと、アウターでいいよね。パンツとかでいいのあったらそれでもいいんだけど」
まああまりカップルコーデでパンツというのはないのだろうが、おれたちの修学旅行は信州の旅で、車山高原から霧ヶ峰のハイキングもある。だから女子もスカートではなくパンツが義務付けられている。また、泊まるホテルは野辺山にあり、夜はエアコンいらずの涼しさで、なにか羽織るものがないと、二泊目の夜に企画されている、ホテルの駐車場で行われるキャンプファイアーなどは寒いらしい。だからアウターでもパンツでもよかったのだが、そんなことを思っていたら返ってきた彼女の言葉に驚いた。
「ええーっ、松田くん、パンツなんかペアルックしても意味ないよぉ。だれにも見てもらえないじゃん。でもって、アウターってなに?」
それはそうだ、アウターなんて言葉はこの昭和の時代、存在すらしていなかったし、ズボンのことをパンツというのもまだまだ先のことだ。ちょっとめんどくせえな、と思ったが、彼女が言うとそれもまた新鮮に思えた。
「あ、ああ、ええと、パンツね、パンツ。ズボンのことでね」
「うそー、ズボンのことパンツって言うの?じゃパンツは?」
もっともな疑問だ。ただ、なんかこうして平気で彼女が「パンツ」という言葉を口にするのが、意外といえば意外だった。
「んと、だから今でいう、じゃない、ここでいう普通のパンツは、女性もんならショーツとかパンティで、男ならブリーフとかトランクスとか、かな」
「ふうん、でも聞いたことないよ、わたし」
おぉ、突っ込むなあ、とちょっと焦りながらおれは言った。
「ああ、それ、こないだ観た映画でやってたんだよ」
「ふうん、ヘンな映画」
そう言って彼女は、けらけらと笑った。こんな笑い方もできるのだ、とまたこれも新鮮だった。そうとうおれに心を開いてくれているらしいことが手に取るようにわかり、愛しさは増すばかりである。おれは続けた。
「で、アウターってのは、上着のことね」
「へえ、それも映画?」
「そ、これも映画」
「おもしろいね。アメリカじゃそう言うんだね。勉強になるわあ、覚えとこっと。今度その映画、一緒に観よね」
一緒に観るのはまずい。なにしろそんな映画は存在しないのだ。
「あ、あのね、おれ、映画ってあんまりデートには合わないかなって思うんだよね」
「えーっ、どうして?」
「いやだって、映画ってだいたい2時間だよね」
「うん」
「で、映画観てる間って、お互い話しできないじゃんね」
「うん」
「てことは、せっかくのデートなのに、2時間近くなんにも会話がない、ってことよ?2本立ての映画だったらほぼ4時間、ずっと無言」
「あ、ほんとだ。それ、いやだね」
いちいち純粋で、好感度はとどまるところを知らない。
「ね、だからデートで映画は、イヤなの」
「なるほどー、松田くん、ナイスだね」
なんとかおれがこの難局を切り抜けた瞬間だった。
彼女が続けた。
「えと、じゃあやっぱり、えと、なに、アウター?がいいよね。目立たないもん、えと、パンツじゃ」
「了解。じゃあ早いうちに栄のセントラルパーク行って、いいやつ買ってこようよ」
「あのね、松田くん、なんかしゃべり方独特だよね」
いきなりな問いかけに、おれはちょっと戸惑った。
「え、なにが?なんかヘンだった?」
「あの、さっきも言ったじゃん、『ペアルックの件』って。いまも『了解』だし。なんかね、お父さんみたい」
そう言って彼女はまたけらけらと笑った。それに合わせておれも、
「そっかあ、ほんとだね」
と言って笑ったのだが、内心では
「ほんとはお父さんくらいの歳なんだけどね」
と思ったりもしていた。
「じゃ、あしたセントラルパーク行こっか」
「了解」
「あ、また」
「ほんとだ。じゃあ、承知した」
「もっとヘン」
ここでまた二人で笑う。
まるで三流の学園ドラマのようだが、現実はこんなものなのかもしれない。おれは二度目の青春を、心から楽しんでいた。
それからおれたちは、明日はお互い部活を早めに切り上げて午後4時30分に下駄箱で待ち合わせ、その後、名古屋の中心部にある栄という街の、セントラルパークという地下街に行って物件を探すという約束をした。修学旅行に着ていく服を買いに行くのだと言えば、おれの母親もなにも疑わずに出資してくれるだろう。5千円くらいのものであれば文句はあるまい。
そんな話をしているとき、おれは先ほど花村に言われたことを思い出して、彼女にぶつけてみた。
「あのね、おれたちこれでつきあうってことになったよね。だったら、お互いの呼び方を、なんかその、下の名前で呼び合うとかしない?」
これを聞いて彼女の顔がまた笑顔になった。
「あ、それ、わたしも言おうかって思ってたの」
まあ王道といえば王道か。
「じゃあおれは、『まゆみ』でいい?」
「それはねえ、お兄ちゃんみたいでイヤなんだよねー」
「あれ、お兄ちゃんいるんだっけ?」
そういえばおれは、彼女のことはまだよく知らなかった。もちろんつきあっているうちに知っていくのだろうが、兄がいたとは一人っ子のおれからしてみればうらやましいことだ。姉が欲しかったおれは、いとこの姉さんや、友達のお姉さんにあこがれたこともある。
「いるんだよねー」
「仲いいの?」
「いいよ。ものすごくかわいがってくれる」
「そっかあ、おれ一人っ子だからうらやましいな」
おれは続けた。
「じゃあどうしよ。なんかほかの人が呼ばなそうなのがいいよね、特別感あって。『まゆ』とか?」
「あ、それいい。初めて言われた」
彼女の笑顔がはじけた。そして彼女が続けた。
「『まゆ』で決定。松田くんは、どうしよっかなあ」
「『タカシ』はもう売れてるしね。『タカちゃん』じゃおふくろか親戚だし、『マツ』みたいな苗字は絶対イヤだしなあ」
「えっ、松田くん、お母さんに『タカちゃん』て呼ばれてるの?」
するどいツッコミだ。まあ、落ち着いたのだろう。それならそれにこしたことはないか。
「あ、いや、子供のころね」
「ふーん。まあいいや」
若干納得していないようだが、彼女はそう言って続けた。
「ねえ、『タカさん』てどう?」
ほほう、これは衝撃だった。55歳になるまでそんな呼び方をされたことはない。小学生のときに、バスケ部の先輩から「マツボックリ」というあだ名を頂戴し、中学を卒業するまで「マツボックリ」だった。高校では「タカシ」だったし、大学では「マツダ」と苗字で呼ばれていた。たまにわざと「トヨタ」とか「ホンダ」とか呼ぶやつがいたが、面倒くさいのでスルーしていた。社会人ではあだ名で呼ばれることはなかったから、となるとこの「タカさん」は本当に新鮮だ。おれもにっこり笑って言った。
「それ、いいねえ。『タカさん』でヨロシク」
最後の「ヨロシク」はちょっと矢沢永吉感を出してみたのだが、彼女にはいっさい伝わらないようだった。
気を取り直しておれは言った。
「ね、おれたちのことってね、花村とか小田とかがさあ、けっこう応援してくれてたんだよ」
「えっ、そうなの?じゃあ小田くんたち、わたしが松田くん、じゃないや、タカさんのこと好きだって知ってるの?」
「いや、ていうより、おれがまゆにゾッコンラブだってこと」
ここでまた調子に乗って昭和の名曲を出してみたのだが、矢沢永吉と同様まゆはクスリともしなかったので、激しく後悔した。平成、令和の子たちと違い、昭和の子はそれほどジャニーズ命ではなかったのだろうか。彼女の音楽の趣味も聞かなければ。
「えっ、そうなの?わたしのほうがずっと片想いだと思ってた」
「はぁ、おたがい勘違いだったんだね。おれ、けっこう相談してたんだよ。で、いろいろアドバイスしてもらってた」
「ああ、だから今日、小田くんが呼びに来たのかあ。なんかヘンだと思った」
そう言ってまゆは笑った。
「でね、あしたなんだけど、朝いつも、『おはよ』の挨拶するじゃんねえ。明日はそのときにおれ、『まゆ、おはよう』って言うから、まゆも『タカさんおはよう』って言わない?みんな、めっちゃビックリするよー」
「あー、それおもしろーい。やろうやろう」
ノリもいい子だ。ますますかわいさが増していく。そしてまゆは続けて言った。
「びっくりするし、喜んでくれるよね」
喜んでくれるのは間違いない。なにしろこちらには、水泳部と弓道部の部長がついてくれているのだ。彼らが一番に喜んでくれれば、ほかに喜ばないやつはいない。
「絶対喜んでくれるよ」
おれは笑って言った。
さて、そんなこんなでそろそろ今何時だろう、と思ったときにおれのデジタル腕時計が正時を鳴らした。驚いて見ると、もう午後8時だった。会ってから全然時間が経ってないような気がするのに、もう1時間半も経っている。楽しい時間は早く過ぎるというのは定説だが、あまりにも早すぎて、明日またすぐ会えるというのに別れるのがつらかった。ただこれ以上遅くなって、お互い親から外出禁止などと言われては元も子もない。ふたりとも名残惜しくはあったが、明日の朝の挨拶を楽しみにと、けっきょく遊歩道を歩くことなくずっと座っていたベンチから、おれたちは腰を上げた。
立ち上がると、それまで木立の陰に隠れていた、ライトアップされた名古屋城が、おれたちの目の前の夜空に浮かんだ。その美しい姿は、まるでおれたちに力を与えてくれているようで、とても雄々しかった。
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