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僕は昔、彼女に聞いたことがある。 もし君がこの世に居続けるためにはなにを望むのか。 学校の屋上の夕日が彼女の長い髪をきらめかせながら、沈んでいく。彼女はそんな夕日を見ながら後ろにいる僕に背を向けたまま質問の答えを教えてくれた。 それはまるで、当たり前のように聞こえて。 「そんなの当たり前の事じゃない?」 「そう。当たり前。でも、そんな世界どこにあるの?」 そんなもの僕には分かるはずもなく、彼女の背から目を逸らし、だまりこくるしか無かった。僕からすればそんな当たり前のことを新たに世界に望むわけがわからなくて、かと言って、頓珍漢な回答ではなく、言っていることの意味、また、それが的を射たものであることは感覚的につたわっている。 言うなら大学教授が専門の話を生徒にしている感覚。彼女にそんな威厳がある訳では無いが、分からないけど、きっとそれが正しいんだと、どこか納得できてしまう。 「それがどこかにあればいいんだけど。」 私はまだ見た事ないんだなぁ。と彼女は言った。彼女は綺麗な瞳の先に小学生よりも甘い空想を夢みていた。 「私たちが見てるものって、それが当たり前かもしれないけど、意外とそういうのほど、大事なものだったりするんだよ。」 僕はふーんと相槌を打っておいた。実際のところ、彼女の言い回しは相変わらず回りくどくて、さっぱり意味はわからなかった。それでも、僕は彼女から滲み出る空気感にある、名前の知らない切なさが胸を締めていた。 彼女がこちらを振り返り、言う。 ねぇ、 「君はこの世界のどこにいるの?」 彼女の背景は、美しく、汚れていた。 「僕は君とは違うんだよ。」 彼女はそっか、と小さく呟いた。 日の沈み終わった地平線に移るかげはどこか寂しげに見えた。その景色を物憂げに眺め、ぴょんと屋上のフェンスから飛び降り、僕の前に着地した。 「今日はやめておくよ。」 そう言って彼女は僕に微笑みかけた。 「そっか。」 彼女がまだ、そのときではないことぐらい知っている。それは彼女もわかっていた。だから多分、本当はそのときではないと僕に告げたかったわけではない。この言葉は彼女にとって世界への一縷の希望みたいなものであり、逆にある意味での絶望のようなものでもあるのだろう。だからわかっていても言葉を返してあげるのが礼儀なんだろうと思う。この世界にいるのは彼女1人ではないということを伝えるためには。この世界にいることを迎え入れるためには。 「あのさ、」 いつものように彼女の荷物を持って帰る準備をしていると、彼女が聞いてきた。 「君はさっきの質問、どう答えるの。」 「僕は何も考えず生きてるよ。」 本気で答えたつもりだが彼女は納得できない様子だった。 彼女はうーんとうなりながらベンチ椅子に腰掛け、僕にむかって手招きしている。 僕はある程度荷物をまとめて、彼女の横に座った。 重みでプラスチックが軽く鳴いた。 「では質問を変えますね。」 彼女はアナウンサーのようにマイクをこちらに傾けるモーションをして僕を見た。 「あなたが生き続けるために必要なものはなんですか。」 「空気。水。」 「小学生じゃないんだから。」 「じゃあ、君。」 「いやん、嬉しい。」 彼女は照れてもいない素振りだが、わざとらしく顔を隠した。 「半分本気なんだろうけどそれはダメ。」 そう言い、笑いながらコツンと軽く頭を叩く。 「でも、僕はこれが全てだよ。僕は別になにかに拘って生きるつもりは無いし。」 何かを高望みしなくたって、僕はこの世界を生きていくことは出来る。でもそれは多分、彼女には伝わらない理論だろう。彼女はこの世界に対して誠実でありすぎるのだ。きっと。 誠実でありすぎるあまり、この世界に絶望することが出来ないでいる。彼女の純粋すぎる世界への視線は、甘すぎるメロンが喉を痛めるのと同じで、彼女自身の心を傷つけている。 実際、普段はどんな話もあっさり飲み込めるような彼女が、今は首を軽く傾げながら難しい話を噛み締めるようにうなづいている。 「まぁ、君はそうなのかもしれないね。」 彼女はようやく諦めたようで、そう言ってベンチから起き上がりうーんと伸びをした。長い髪がそよ風に揺れて辺りに美しい匂いを振りまく。 まるで普通の少女だった。 「アナウンサーごっこはおしまいですか。」 「そうだね。帰ろう。」 彼女は笑って手を差し出す。 彼女がいなくなるその世界が訪れるまで、僕はこの笑顔を守ってあげたい。 ゛夢の中のあれ゛はいつかのように現実になるのか。 点滅する赤いライトと警告音の中、あの子は間違いなく飛び込んでいき、僕の目の前から、一瞬で消えた。目前に残ったのは鮮紅に染まる鉄。耳には空を切り裂くような鉄の摩擦音。甲高い高音。 伸ばした彼女の手が虚しくあるだけの今の図式はコンクリに投げつけられたみかんような、そんな゛夢の中のあれ゛の音に似ていた。
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