鯛を釣る少年

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「えっ?」    次の瞬間、物凄い強さで、竿が引っ張られる。   「パッ……パパッ!?」  僕の声で、ハッとした表情を見せたパパが、大声をあげた。 「優斗! かかったぞ! 竿を立てるんだっ!」  これまで聞いたことのないような強い声に、僕は反射的に竿を立てた。  それに抵抗するように、恐ろしい程の力が返ってくる。  竿が冗談みたいな角度にしなる。  凄い力だ!  クラスで一番腕相撲が強い武くんなんか比較にならないくらいの、強引なパワー。    カラカラと回るリールから伸びる糸は、あっという間に十メートルを超えた。  パパは、手伝ってくれない。  何かを信じるかのような必死な目で、僕を見ている。 「優斗っ! 何が何でも釣り上げるんだっ! 優斗の凄さを見せてくれ!」  これまで聞いたことないような、パパの絶叫だった。 「ええっ……。でっ、でも……凄い力だよっ」 「負けるなっ! 負けないでくれっ! 優斗っ!」    それって、応援の言葉なの?  一瞬そんなことを思ったけど、そんな事なんて考えられなくなるくらい、糸が引っ張られる。  竿を立てて、必死にリールを巻く。  巻いては、再び糸が引っ張られる。  負けるもんかっ!  絶対に鯛を釣り上げて、ママに会うんだ!  無我夢中って、きっとこういうことなんだ。  普段出ないような力が、体の中から湧いてきた。  今なら、武くんにも腕相撲で勝てそうだ。  そんな自信がみなぎってきた。  ママに会いたい!  落ちかけた夕日の光に反射して、キラキラと輝いている水面。  そこから真っ直ぐに伸びた糸は、右へ左へと、まるで生きているみたいに暴れ続ける。 「このおっ!」  叫び声をあげて竿を立てた瞬間、大きな影が水面から飛び出した。  反り返った魚影は、三十センチはありそうな大きな体。  トゲトゲの背鰭は、恐竜みたいでカッコイイ。  体を覆う鱗は、夕日を浴びてキラキラと真っ赤に輝いていた。  あまりの美しさに、僕は思わず息を呑み込んだ。   「鯛だっ! 鯛だぞ! 優斗っ!」    興奮したパパの絶叫に、我に返った。  着水した鯛は、再び僕の竿を川に引っ張り込もうとする。  釣れる!   釣ってママに会う!  最後の力を振り絞って、僕は竿を体に寄せた。 「優斗っ! もう少しだっ! 運命を変えてくれっ! 優斗!」    パパの言葉は、もはや意味なんて持っていなかったけど、不思議と僕に力を与えてくれた。  絶対に負けない!  釣り上げてやるっ!  そう思った瞬間、突然竿が軽くなった。 「うわっ……」  まるで、綱引きの綱を突然手放されたみたいに、僕は葦の草むらに転げこんだ。    鯛はっ?  慌てて立ち上がって水辺に駆け寄ると、さっきまで格闘し続けていた鯛が、再び水面に跳ねた。  美しい赤い魚影。  しかしそれは、あっという間に元の住処へと消えていってしまった。  糸はもちろん繋がってない。  鯛が逃げた。  理解したくないその事実を知った瞬間、僕は思わずその場に膝をついた。    まるで、完敗したボクサーみたいだった。  足に力が入らない。  力一杯竿を引っ張り続けた手は震えていて、鯛の力強い感触が残っている。 「釣れなかった……」  悔しくて、涙が溢れてきた。  もう少しで、釣れたのに。  後一歩で、ママに会えたのに。 「優斗っ!」  顔を上げられずにいると、パパが飛びついてきた。  大きな力で抱きしめられて、息が苦しくなる。 「よくやった! 優斗! よくやった、よくやった!」  パパの声は掠れていて、言葉の間には鼻水でグシャグシャの鳴き声が混じっていて、はっきりとは聞き取れなかった。 「でも……、釣れなかったよ、鯛」  僕は、日が落ちて暗くなった川面を見ながら呟いた。    パパはすぐには答えなかった。  その代わり、首に回した腕にとんでもなく力が入る。  ……そろそろ息ができなくなる。  耳元で聞こえるパパの声は、ずっと鳴き声だった。  そんな状態がしばらく続いた後、パパがようやく口を開いた。 「釣れたよ……。優斗は鯛を釣った。凄いよ」  あれで釣ったと言っちゃうのは、ズルじゃないかな?  そんなことを思ったけど、確かに釣り上げられはしなかったけど、釣ったのは間違いない……。  それに、あれはどっからどう見ても鯛だったし……。  ちょっと都合はいいかもしれないけど、そんな風に納得した。  ……てことは。 「これで僕は、ママに会える?」  その言葉に、パパがピクリと反応した。  一瞬の間の後、再び絡まった腕に力が入った。 「もちろんだ! ママに会いに行こう、優斗!」    ママに会える。    鯛は釣り上げることはできなかったけど、そんな悔しさなんてどうでも良くなるくらい胸が熱くなった。  ママに会えるんだ。  本当は、釣り上げた鯛を持ってママに会いに行きたかったけど、そんなことはどうだっていい。  早くママに会いたいな。
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