鯛を釣る少年

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 千……、三十……何回目だっけ?  とうとう、竿を振った回数が分からなくなった時、夕焼け小焼けの音楽が鳴り響いた。 「優斗―」  パパの声が、背中から聞こえてくる。  帰る時間だ……。  でも、今日だけは振り向きたくなかった。  もうちょっとなんだ……。  今日しかないんだ。  パパの声を無視して、僕は千三十数回目の竿を振った。  五メートル先の浮きを眺めていると、隣にパパの気配がした。  僕は、ずっと前だけを見つめ続けた。  太陽が、海面に落ちかかっている。  夕暮れ時。  もう少し……。  もう少しなんだ。  今日はまだ、帰りたくない。 「どうだ、優斗。釣れそうか?」  パパの言葉に、僕は首を振った。   「そうか……」  少しの間を置いて、パパがまた口を開く。 「そろそろ帰るか」    僕は、もう一度首を振った。 「今日はもう少しやりたい」  少しだけ考え込んだパパは、小さく「そうか」とつぶやいた。  そのまま、僕が投げ込んだ浮きをずっと見つめ始めた。  こんなパパの反応は初めてだった。  毎日五時きっかりに川辺に来て、すぐに僕を家まで連れて帰ろうとするのに。  僕は思わずパパの顔を見た。 「いいの?」  パパは、僕の言葉には答えなかった。  ずっと浮きを見ている。 「なあ優斗……」 「……なに?」 「鯛……、釣れそうか?」  思わずパパの顔を見たけど、沈みかかった太陽の光があまりに眩しくて、どんな顔をしているのかは、わからなかった。 「釣れるよ。今日なら釣れる」 「……なんでそう思うんだ?」 「理科の先生に聞いたんだ……。川で鯛を釣る方法ってありますかって」  パパは無言で、僕の言葉に耳を傾けている。 「川と海の境目、海水が混じってるところだったら、鯛が迷い込む可能性があるんだって」  その言葉に、パパが大きく目を開いた。 「……汽水域か」 「うん、先生もそう言ってた。それで、その日の潮の満ち引きで、海水と川の水の境目の位置が変わるんだって……」  パパが、再び浮きに目をやった。 「今日の夕方、一番の満ち潮になるから、ここまで鯛が来るかもしれないんだ」  先生がわざわざ調べてくれた。  ここまで潮が満ちる日は、数ヶ月先までない。   だから今日なんだ。  五時の夕焼け小焼けの少し後の時間。  そこが、僕の最後のチャンスだ。  僕は、川面を見つめた。  夕日に照らされて、キラキラと輝く美しい水面。  来い……。  来い……、海水、来い!  心の中で、必死に祈る。  隣を見ると、パパも目を見開いたまま、ずっと浮きを見つめている。  祈るように。信じるように……。  僕とパパの心の声が共鳴したように感じた瞬間、不思議な光景が目の前に広がった。  水面の色が変わったのだ。  透き通るような川水が、少し緑がかった色になる。    その緑を辿るように右に視線を送っていくと、徐々に色が濃くなって、やがて真っ青な海の色になった。 「来た……、海が来た」  呟くと、緑の水面に黒い影がヌッとあらわれた。  ツンツンと竿が突かれた感覚が、両手に伝わる。 「……」  なんだと思った直後に、赤い浮きが物凄い勢いで、水中に消えた。
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