鯛を釣る少年

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鯛を釣る少年

 身の丈よりも長い竿を精一杯振ると、真っ赤な浮きがポチャリと落ちて、水面を漂う。    九百三十五回目の挑戦。  最初はいくら頑張っても目の前にしか落ちなかった浮きが、ようやく五メートルくらい遠くまで飛ぶようになった。  我ながら大きな進歩だ。  こんなに遠くまで浮きを飛ばせる小学二年生は、そうそういない。  今までの努力の成果が目に見えるようで、どこか誇らしくなる。  すると、葦の草むらの先から声が聞こえてきた。 「優斗―」  パパだ。  パパが迎えにきたということは、もう夕方の五時だと思った瞬間、夕焼け小焼けの音楽がスピーカーから鳴り響いた。 「そろそろ帰るぞ、優斗」 「待って、今投げたばっかりだから」  横に立ったパパが、浮きに目を向けた。  その表情は、どこか悲しそうだ。  このところ、パパはずっとこんな感じ。  最近、笑顔を見せてくれない。 「なあ優斗……。いつまでやるんだ?」 「釣れるまでだよ」  僕は、もう一度浮きに目を向けた。  二人の視線が、水面にフラフラと漂う浮きで交わった。 「約束したでしょ? ここで鯛を釣ったら、ママに会わせてくれるって」 「それは……」  それきり、パパは黙り込んでしまった。    パパは、まさか僕が本気でこんなことに挑戦するなんて、思ってもいなかったんだ。  浮きの先に視線を向けると、対岸が見える。  大きな幅ではあるが、水は左から右へと同じ速度で流れている。  ここは川だ。  小学生の僕だって、流石に知っている。  鯛は海の魚だ。  だから、川では釣れない。  教科書にだって、どんな図鑑を調べたって、そう書いてある。  浮きから目を離して右に顔を上げると、河口から大きな海が広がっている。  鯛の住処は、あっちだ。  でも僕は、ここで鯛を釣り上げなきゃならない。  どんなに不可能に思えても、それをしなきゃいけない理由があった。  ママに会うためだ。 「優斗……。事情があって、しばらくママと会えなくなった」  二ヶ月前に、パパが突然そう言って、それきりママに会えていない。  いくら理由を聞いても、パパはてんで答えてくれやしない。 『ママはどうしたの?』  そう聞くと、パパは決まって悲しい顔を見せる。  パパだけじゃない。  おじいちゃんも、おばあちゃんもみんな同じ顔。  でも、どうにかしてママに会いたくてパパを説得し続けたら、とっておきの約束をしてくれた。 「そこの川で鯛が釣れたら、ママに会えるよ」  僕の質問攻めにあって、ほとほと疲れ果てたパパの感じからすると、どう考えても無理な目標を言ったのは間違いない。  でも、そんなことどうだってよかった。    ママに会いたい。  そんな一心で、その日から僕は、パパの部屋から引っ張り出した竿を振り続けたんだ。  大人用の竿。  大きな仕掛けは、海の魚むけだ。  今のところ九百三十四回、浮きは反応していない。  そしてその記録は、もう一つ増えそうだ。  でも僕は竿を振り続けるんだ。  いつか川で鯛が釣れると信じ続けて。  千回でも、二千回でも。  明日も、明後日も、そのまた次の日も……。  絶対に鯛を釣るんだ。
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