7 四百年来の孤独な作業

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 ……彼女はそう思いつつ、本を開くとその日の仕事を開始すべく机に向う。彼女はひとつ咳払いをすると、よく通る声でその本を朗読しはじめた。 「“ああ、わたしのいとしい、なつかしい、美しい庭! ……わたしの生活、わたしの青春、わたしの幸福、さようなら! ……さようなら!”」 「『桜の園』か、チェーホフの。物語のラスト、第4幕のラネーフスカヤの台詞だな」  唐突に背後から声が聞こえて、ニーアはゆっくりとその方向に振り向いた。視線の先には、腕組みをしながら本棚に寄りかかり、こちらをじっと見つめているゲイリーの姿があった。その顔は赤く、アルコールの残滓を感じさせるが、その声はやや掠れつつも、鋭いものであった。ニーアは答える。 「……よくご存じね。その通りよ。博識ね、ゲイリー」  するとゲイリーは腕組みをほどき、ゆっくりとした足取りでニーアに歩み寄ると、彼女の手元の古びた本を覗き込んだ。ニーアは一瞬、昨夜の彼の狼藉を思い出し、身体をびくりと震わせる。それを見てゲイリーはの悪そうな顔で弁解した。 「もう、襲ったりしねえよ。すまなかった。それに、また君の強烈な蹴りを食らうのはまっぴらご免だからな……どれどれ、懐かしいな、チェーホフ。そうそう、次の台詞は“お名残りにもう一度、壁を見て、窓をながめて……。亡くなったお母さまは、この部屋を歩くのがお好きだったわ”……だったな」 「よく読めるわね」 「このくらいなんてことないさ。航海士って奴は、大概の言語は読めるよう訓練されているものさ」 「そうだったわね、航海士さん」  ……ニーアの不意打ちの皮肉を、ゲイリーは躱し損ね、途端に彼の顔は、苦虫を踏み潰したような表情になる。  ※“”内=『桜の園・三人姉妹』アントン・チェーホフ著 神西清訳 新潮文庫 (新潮社)より引用
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