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(――だけど、もう)
私はそっと息を吐くと、右手をゆっくり肩の高さに上げる。
別れてしまったから。私たちの道は。
「……バイバイ」
相変わらずなにも言わない綾乃に向かって、私は小さく手を振った。
バイバイ。
楽しいことも、苦しいことも。あなたと、大切な時間を共に過ごした。
でも今、私たちの道は互いに遠ざかっていく。
もしかしたら、また、いつかどこかで。私とあなたのいる場所が、交わることがあるかもしれない。――あるいはもう、ないのかも。
私には、それを知るすべはないけれど。
どうか。
あなたも幸せに。
濃くなってきたもやに、目の前の綾乃の姿が覆い隠されていく。
「……」
ふと、もやの向こうで彼女が身じろぎした気がして、私は目をこらした。直後に視界が白く塞がれる。
白い壁に姿をかき消される瞬間、しなやかな腕をかすかに上げた、綾乃の動き。
この目で確かに見たその動きを、頭の中で何度もトレースしながら。
いつの間にか私の身体も、乳白色の不思議な幕に閉じ込められ、溶けていった――。
「……あ」
目覚めると、頬を涙が伝っていた。
『ピチュピチュ、ピチュピチュ、ピチュピチュ……』
鳴り響く、目覚まし時計のアラーム。
カーテン越しに差し込む朝の光。急激に上がっていく気温。
いつも通りの自分のベッドの中で、私はゆっくり手を上げて涙で濡れた頬を拭う。
まるで、胸の中にあった見えない結び目がほどけたような気分だ。
つい今しがたまでみていたはずの夢の記憶は早くも薄れて、残像のようなぼんやりしたイメージしか残っていなかったけれど。
不思議な身体の軽さを感じて、いつの間にか私は微笑んでいた。
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