僕の手の涙

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 じわじわと、蘇ってきた。あぁきっと、僕はこの感覚から一生逃れられないのだと思う。  ――どうしてだろう? もうずっとずっと昔の、遠い過去の出来事のはずなのに。ふと、思考に隙間ができると、あのいやな感覚がするりと僕の脳内に入り込んで、蘇ってくる。  彼女と出会ったのは、ほんの偶然だった。彼女が僕に話しかけてきたのではなく、僕が彼女に話しかけたのだった。いや、話しかけたというよりも、あれは、彼女を救うべく僕が一生分の勇気を振り絞って立ち上がったと言える。電車で彼女を痴漢していた男から、彼女を守った。駅員に痴漢を突き出した後、彼女に大丈夫かと聞くと、彼女は安心したように涙を浮かべて、ありがとう、と微笑んだ。その儚い表情に、僕は一瞬で恋に落ちた。好きだと思うよりも先に、細胞が欲望で震え上がった。彼女を守りたい、抱き締めたい、僕のものにしたい、と。  それからほどなくして、僕らは付き合うことになった。僕の精一杯のアプローチのおかげと、痴漢から自分を救ってくれたという強烈な王子様フィルターが彼女にかかっていたおかげだ。僕らは晴れた日には公園を散歩したり、街中でウィンドウショッピングをしたり、雨の日には彼女や僕の家でふたり寄り添って、映画を観たりした。僕は彼女と過ごす時間が幸せだった。彼女がそばにいるだけで、これ以上ない幸せに満ちていった。  彼女が別れたいと言ったのは、付き合って五年の月日が経ったときだった。青天の霹靂――とまでは思わなかった。なんとなく、僕なりに察していて、あぁ、やっぱりと感じ、ついにこのときが来たのだな、と、なんとも言えない虚しさがこみ上げてきた。  彼女は、ひとりになりたかったのだ。彼女はこの世から逃げ出したがっていた。でもやさしい彼女は僕を巻き添えになんてできないから、と僕に別れを告げ、ひとりで消えようとしていた。でも僕は彼女をひとりでいかせるのはいやだったから、引き留めようとした。もみ合いになり、床で暴れ狂う彼女を抑えようと、咄嗟に首元を掴んだ。その直後から僕の記憶はない。  ――気がついたときには、動かない彼女が僕の股下に転がっていただけだった。
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