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0.プロローグ――吊り橋の上で
水の音が渓谷に反響し、重厚な膜となって耳を塞いでいた。閉じ込められた心音がドクンドクンと煩いくらいに頭蓋を揺らす。ここまで走り続けたために呼吸は乱れ、脈を打つたびに喉の奥から何かが込み上げそうになる。
今、彼はその鉛色の瞳に、美しい人殺しの少女を捉えていた。
少女がこちらを振り返った瞬間。
エアロンは情動に駆られるまま引き金を引いた。
弾丸が腹を貫く。背面から噴き出した血と弾丸は彼には見えなかったが、足元に飛び散った血の雨は鮮やかに彼の眼を刺した。
「追い詰めたよ」
報復による刹那的な悦びが彼の中で沸き上がっていた。
少女は血の滲む腹部を庇いながら、手摺りに縋って立ち上がった。乱れた黒髪が顔に掛かる。
それは可憐な少女の顔ではなかった。
冷酷で無感動な殺人鬼の顔。
「痛いじゃない、酷い人」
罪なき一家の命を奪っておきながら、彼女は言うのだ。
形の良い唇を拗ねたように尖らせて。
「君は誰だ? どうして彼らを殺した? 何が目的で僕に近付く?」
「やだ、そんなに一度に質問しないで。答えはあなた自身が言ってるじゃない――」
ふいに、彼女がエアロンに近付いた。
背伸びした顔は蒼白で、吐息の荒さから彼女の体力に限界が迫っていることが窺えた。それでも彼女は止まらない。
「あたしの名前はメルジューヌ。メルジューヌ・リジュニャン。彼らを殺したのはあなたに近付くため。そしてあなたに近付いた目的は――」
血で塗れた両手が青年の手ごと銃身を包む。突然の行動にエアロンは身を捩るけれど、メルジューヌは強い力で放さなかった。そのまま真っ直ぐ、銃口を胸に当てる。
「――あなたに、殺してもらうためよ」
吊り橋の上で交わされた会話の多くは、エアロンの記憶の暗い部分へと収まってしまって不鮮明だ。だが、身を寄せた彼女の体温と、シャツに彼女の血液が染み込んで来る感覚は、幾晩を経ても忘れることはない。
「残念だけどね……僕は君の挑発に乗ってあげる程、安い男じゃないんだよ」
そう言って拒絶したエアロンに。
「それじゃあ、仕方がないわね」
メルジューヌは微笑んだ。
抵抗する彼の体を谷底へと伴いながら。
「さようなら、エアロン。きっとこれは始まりよ。あなたの物語が、ここから始まるの」
硬い空気の塊を突き破って、二人の体は落ちて行った。
水面に体が叩き付けられる衝撃。
濁流に呑み込まれ、手放しつつある意識の中で、エアロンは彼女の言葉を走馬灯と共に反芻していた。
メルジューヌ・リジュニャンによって告げられたこの物語は、曇天の街エルブールに端を発する。
――少なくとも、エアロンはそう信じていた。
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