2人が本棚に入れています
本棚に追加
男は、初江の兄の友人で、郷土資料館に勤める木戸という。伊勢神宮など文化遺産の多い三重県の歴史研究の傍ら、こうして現地へ赴くのだという。
子供の時から海に親しんでいた初音は、彼に海女の話を聞かせていた。やがて木戸は家に訪れる回数が増え、「先生」と呼ぶ初江の心に、淡い恋心が宿るのに時間はかからなかった。
「これは大王崎灯台、それから御座白浜海岸……」、木戸が嬉しそうに見せる写真と調査記録には、海の傍らで暮らす人々のありのままの姿が事細やかに綴られている。
特に海女を語るとき、木戸は熱弁を振るう。
「海女は、縄文時代からいたと言われている。伊勢神宮が鎮座した折にも鮑が奉納され、以来2000年も続いている。海の文化は絶やしてはならないんだよ」
「先生。安心して、小さすぎる鮑は海に帰してあげるから。ずうっと長い間、海女は海の幸を取りすぎないよう、自然を守ってきたの」
彼の真剣な眼差しを思うと初音は気恥しかった。
ある時、真新しい木綿の手ぬぐいを木戸はそっとくれた。「無事に帰れるように、いつでも祈っている」、手ぬぐいに書かれた、海女に伝わる魔除けの『セーマンドーマン』の印にはっとする。
毎年、どこかで命を落とす者のある海の闇に、初音も身体の芯から冷える程の恐怖を感じたことがある。陸の者には分からないと思っていた感覚。触れた木戸の手の温かさに秘めた情熱に、初江はようやく気付き頬を染めた。
もう、磯の鮑の片思いなんて、思わなくていいのね……。
最初のコメントを投稿しよう!