序章 鮮血の天使

2/19
前へ
/367ページ
次へ
 その日を、少年は海の上で迎えた。 「ねぇ、気付いてた? 今日はあなたの誕生日よ。ラドム」 「え?」  狭い船倉。窓のない空間で、時間の感覚は失われて久しい。  荷物の隙間に一家三人で身を潜めながら、不意に囁かれたその言葉に彼は戸惑いの声をあげた。 「母さん、そんなこと……」  そんなこと言ってる場合じゃないだろと告げかけて、ラドムと呼ばれた少年は言葉を飲み込む。  今だからこそ、日常の会話が貴重なのだ。  僅か数分先には儚く消えゆくかもしれない命に、せめてひとときの安息を。  彼らユダヤ人にとって、まさに地獄の時代だった。  民族を理由に、無慈悲に命を奪われる。  何故という当然の疑問を、口にする者は祖国ポーランドにはもういなかった。
/367ページ

最初のコメントを投稿しよう!

62人が本棚に入れています
本棚に追加