与えること、奪うこと

3/7
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
 あれは私が次男と同じ7歳の頃だったと思う。臆病で動物に慣れていなかった私は通学路にいつもいるブチという野良犬が大嫌いだった。  通学路といってもブチは私の家のすぐ隣のアパートに住み着いていたから、外に出るたびに心穏やかではない。  おまけに目鼻のパーツをぎゅっと集めたような顔のブチは年がら年中薄汚れた生成色の毛をふさふさとさせていて、痩せているのか太っているのかも分からない。何年も前に刈り取った綿毛だらけのススキの穂をぐちゃぐちゃに転がしたみたいな犬だった。  ちなみに野良なのに名前があるのはそのアパートの一階に住む一人暮らしのおばあちゃんが名付けたからで、ブチはよくおばあちゃんから餌やおやつを貰っていた。とても優しいおばあちゃんで、私が家にあった『かわいそうな象』の話を読んであげるとポロポロと涙を流すような人だった。  時には、ひとつ年下だけど私より体の大きなゆみちゃんを誘ってアパートに遊びに行くこともあった。 「田宮さんのおばあちゃんはね、うちにお手伝いに来てくれてるんだよ。お母さんがお給料にって一日一万円あげてた」  そんなことをいってくるのはゆみちゃんがアパートの大家の娘だからだ。それにしてもハウスキーピングに日当一万円も出せるなんて、今思えばバブリーな話である。  痩せっぽっちの田宮さんは複雑な事情を抱えたおばあちゃんだった。夫がとても神経質で、防犯に異様に気を遣って夜中もそわそわと何度も玄関の鍵を確認したり、ちょっとしたことで激昂しては田宮さんに包丁を向けたそうだ。  着の身着のまま逃げ出した田宮さんは流浪の暮らしを余儀なくされた。何しろ証拠が残るやり方をすれば行き先が夫にバレてしまううえ、お金もない。だから保証人も敷金礼金も仕事もなくても借りられるアパートを探さなくてはならない。そんな都合の良い物件はかなり貴重だ。事情を汲んでくれる懐の深い大家さんのもとを、居場所がバレない内にという理由で転々としていたらしい。  このことは田宮さん本人から聞いた話だ。中華クラゲみたいなすっぱい匂いのしみついたアパートの角部屋の中で、おかっぱのゆみちゃんと並んで聞いた話だ。田宮さんが、誰にも行き先を告げずに黙って出て行く前の日に、そっと打ち明けてくれた話だ。  
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!