与えること、奪うこと

5/7
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
 話し終えると夫は、ハンドルを切りながらため息をついた。どんな返事が帰ってくるのかと内心ドキドキした。 「咲ちゃんが悪いんじゃないでしょ、それ」  夫の口調はクールだった。 「まず飼う気もない野良犬に餌をあげる方がよっぽど無責任だって」 「それはそうかもしれないけど……」 「そうだよ。それに気まぐれで自己満足の餌なんかもらったって、かえって犬にとっちゃ迷惑だ。ハタ迷惑な話だよ」 「でも、私がお母さんに訴えたせいでブチは……」  今はどこの街にも野良犬なんて見かけないけれど、三十年前の田舎町では当たり前のように歩いていた。保護犬を飼おうという意識も希薄な時代だったから、ブチのように体が大きくて攻撃的な性格の犬が、殺処分までのわずかな間に引き取り手を得た可能性は限りなくゼロに等しかった。 「そんなの実際分かんないだろ」  夫は言った。 「咲ちゃんのお母さんが言わなくたって、危険な野良犬がいれば他の誰かが保健所に通報して連れてかれたはずだし、それが当たり前なんだから。時間の問題だよ。……そりゃ当事者の咲ちゃんとしては、いろいろ思うところあるのかもしんないけど」  こういうとき、記憶の共有ができたらどんなに良いだろうかと思う。口頭の説明では本当に伝えたいことの十分の一も伝わらない。それでも最後に、私の気持ちを汲んでくれる余地を残してくれたのは嬉しかった。 「――次の日ね、ゆみちゃんと二人で田宮さんのところに行ったの。それで昔のことを聞いた。旦那さんに包丁突きつけられて、逃げてきたってハナシ。子供心に、なんでこんなこと子供に話すんだろうって思ったよね。でもその次の日、田宮さんは消えた。テーブルの上に最後のお給料の一万円を置いて、行き先も言わずに行っちゃった」  私は田宮さんの去った部屋を直接見たわけではなかった。でもゆみちゃんから聞いた話を繋ぎ集めると、何もない八畳間の真ん中にぽつんと置かれたローテーブルに皺めのついた一万円札が一枚、寂しそうに載っている光景が浮かんできて、たまらない気持ちになるのだ。頼る人のない田宮さんにとって、お金は一円だって大事だったはずなのに、何も言わずに去る代わりに、大家さんに一万円を残していった。そういう人だったのだ。義理深くて、真面目な、いい人だった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!