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「それじゃ、失礼します。」 扉の手前でもう一度頭を下げ、露木は職員室を後にした。担任の森本慎二は体育を担当しており、挨拶に厳しい。職員室を出る際にもう一度挨拶をするというルールを制定したのも彼だという。 窓から薄い橙が差し込む。日直用の日誌を届けた露木は、人気の無い下駄箱をぼんやりと眺めた。視線をゆっくりと前に向ければ六石棟へ続く渡り廊下が真っ直ぐ伸びている。その奥からは吹奏楽部が演奏する不器用なリズムの、聞き慣れたクラシックが流れていた。 左手の窓の向こうに広がる校舎2つ分の校庭には、白いユニフォームを今にも汚してしまいそうな、野球部の部員たちが列を成して砂利を縫うように走っている。どこの学校にもある、普通の放課後だった。 露木が気になったのは吹奏楽部の下手くそな音色が鳴る渡り廊下の先だった。 部活に所属していない露木にとっては午後3時半を回った校舎は、未知の世界だった。ようやく見慣れた下駄箱や教室でさえもぬめりとしたオブラートで包まれたようで、露木はそんな妙な雰囲気を割くようにして渡り廊下を抜けていく。 白くぼんやりとした明かりが廊下を照らし、左右に並ぶ教室は薄暗いままだった。家庭科室に図書室、理科室など教科別に割り振られた部屋が並んでいる。 上履きの底を鳴らしながら狭い廊下をゆったりと歩いていく。徐々に吹奏楽の音色が近付く。露木の前にぶつかったのは、武芸室と呼ばれる部屋だった。4月の部活動勧誘会で、ここを使用するのは剣道部と柔道部だと説明があった。自分には関係のない場所だ、そう思って露木は左の奥を見た。 廊下の明かりすらもまばらな、1階の隅。1枚の白い扉がぽつんと佇んでいる。少しばかり開いているのを見た露木は恐る恐る扉に向かった。 資料準備室とプレートには書かれている。無機質な鉄の扉は、おそらく資料が置かれてあるであろう部屋をほんの少しだけ見せている。吹奏楽部の拙い音色を聴きながら扉を閉めようとした時だった。 露木は微かな声を聞いた。 それは公園の隅で野良猫が母親を求めて鳴くような、か細く折れそうな声だった。その声がどこか濡れていることに、露木は少しして気が付く。 微かに開いた扉の隙間から視線を中に送り、露木は目の前の光景に言葉を失った。 銀色の棚は天井まで伸びており、狭い部屋の中に5つも聳え立っている。その中には教科書やプリント、あらゆる紙が詰め込まれている。おそらく使われなくなった教科書などが行き着く場所なのだろう。全てが棚の中に収まっているのに、整理整頓が行き届いていないような印象だった。しかし露木が注目したのは今にも溢れそうな紙ではなく、真ん中の2つの棚の間にいる男女だった。 明るい茶髪を瞼まで伸ばし、円らな瞳は少しばかり開いている。すらりとした鼻筋の下で控えめな唇が荒い息を漏らし、大理石を削ったような輪郭から細い首にかけて汗が伝っている。頻りに動いているため、耳たぶから下がる輪っかのピアスが揺れていた。 ワイシャツ1枚で濃いグレーのズボンを足元まで下ろしているその男は、自分の腰を女性の尻に打ち付けていた。 短い格子柄のスカートを捲り、豆電球のような尻を男の骨張った手が包み込む。女子生徒は腰を打ち付けられる度に金の巻き髪を大袈裟に揺らしながら、あの濡れた声を漏らしていた。 初めて訪れた六石棟の資料準備室で、見知らぬ男女の生徒が性行為に耽っている。露木は目の前の状況を理解できずにいた。 「あっ、ああ、一条くん…あんっ、はぁ…」 一条と呼ばれた男は肉の棒1つで繋がっている女性を見下ろしながら、淡々と腰を前後に振っていた。捲ったワイシャツの袖から伸びる一条の腕は、何年も川を流れた細い流木のようだった。 やがて一条は尻から手を離すと、女性の下に這わせた。ワイシャツの上から優しく隆起する2つの丘を撫でる。深緑のリボンを乱暴に剥いで投げ捨てると、今度はゆっくりとボタンを開けていく。その間も一条は腰を打ちつけながら、荒く呼吸していた。 ワイシャツの前がはだける。一条は自分の左肩に乗せていたネクタイの先端がずれたため、今度は右肩にネクタイをかけてから女子生徒の膨らんだ乳房に触れた。 白い布に赤い花が散らばるように咲くブラジャーの間に指先を侵入させ、円を描く。すると女子生徒は先程よりも大きな声で啼いた。その反応を見て一条は喘ぐ女子生徒の耳にゆっくりと近付くと、何かを言った。 その時だった。一条の視線だけがゆっくりと露木に向いた。 思わず掌で口元を隠し、露木は自分の声を押し殺したが、一条はニヤリと唇の端を吊り上げるとすぐに体勢を戻した。見下ろした女子生徒に激しく腰を打ち付けながら、時折視線を露木に向ける。 耐え切れなくなった露木はゆっくりとその場から離れ、吹奏楽部の耳障りな音色に足音を溶け込ませながら、渡り廊下を抜けていった。まるで何かに追われているかのように焦りながらローファーに履き替える。すっかり禿げてしまった染井吉野には目もくれず、校門を駆け抜けて篠崎駅に急いだ。 その間も露木の脳内を支配していたのは、艶やかな女の鳴き声と、一条と呼ばれていた男の不敵な笑みだった。
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