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一条の言葉に、場は凍りついた。じりじりと詰め寄られて白河はスタッフたちの背後に回る。しかしマッシュヘアーの監督は強気だった。 「お、おい、こいつとりあえず摘み出せ。撮影の邪魔だ。」 そう命じられて、5人のスタッフが前に出る。しかし一条は怯まなかった。 「なめんなよ。」 小さく呟いた瞬間、一条はぐんと背を低くした。咄嗟にしゃがみこんで勢いよく右足を前に出す。白いTシャツの背が膨らんで、ぼうっと風を切るような音がする。 その瞬間、黒いワイシャツを着たスタッフがその場に崩れ落ちた。 「えっ?」 数人のスタッフが疑問の声を漏らす。しかし彼は止まらなかった。 すぐさま踏み込んで黄土色のセーターを着たスタッフの懐に潜り込み、左腕を振るう。スタッフは突然上を見て、糸が切れた人形のように倒れ込んだ。 残った3人が驚いている頃には、既に一条は身を屈めていた。どうやらこのままではいけないと悟ったのだろう。咄嗟に一条へ襲いかかろうとしたが、既に手遅れだった。 左足を軽く振るうと、白いパーカーを着たスタッフの顎に爪先が突き刺さった。がくがくと足を震わせて倒れていく。すぐさま彼は軸にしていた右足の向きを変えて、右腕を振るう。握り締めた手の甲が無地のTシャツを着たスタッフの顎を水平に捕らえ、男の脳を揺さぶった。 再び右足を軸に、ぐっと振りかぶって左の拳を残った1人のスタッフの脳天に突き刺す。土竜叩きのように何もできず、彼も倒れ込んだ。 時間にしてしまえば数秒の出来事であった。畳み掛けるように5人のスタッフを打ち崩すと、一条はその場で短く何度もジャンプしながら、小刻みに息を吐いていた。 「な、何だこいつ…」 そう呟いた監督の横から、2人のスタッフが同時に飛び出す。同時に一条を打ち崩そうと、左右から挟み込むように距離を詰めていく。 しかし一条は物ともせず、いきなりその場で飛び上がった。天井に寂しく吊るされた電灯を両手で掴むと、体操選手のように勢いよく開脚する。その両足は、2人のスタッフの顔面をタイミングよく捕らえた。1人は壁に激突し、もう1人は窓ガラスに頭から突っ込んでいく。再び派手な音を立てて窓が割れていった。 白河たちだけでなく、露木も唖然としていた。10秒と少しで7人を相手にし、その場の流れをがらりと変えてしまう。欲望にまみれた悪魔を倒していく勇者のように見えた。 未だにカメラを構えたままの髭面の男に詰め寄り、一条は右腕を振るう。どうやら拳は男の眉間に突き刺さったらしく、咄嗟にカメラを手放して顔を覆う。バトンを継ぐようにカメラを奪い取ると、迷うことなく打ちっ放しのコンクリートに叩き落とした。 窓が割れた時よりもけたたましい音が鳴って、枕の中にあるビーズのように部品があちこちに散らばっていく。それを見てマッシュヘアーの監督が驚きの声をあげた。 「お、おい!このカメラ高かったんだぞ!」 情けない叫び声が上がる。しかし一条は嘲笑うように鼻から息を抜いて、低い声で言った。 「まぁ、お前の存在価値よりは高いだろうな。」 まるでお土産を渡すように言葉を渡した後、右腕を振って拳で追いかける。監督の鼻先に拳が突き刺さって、硬くなった枯葉を踏んだような音が鳴った。 マッシュヘアーを両手で掴み、下に引いてから膝小僧を合わせる。らっこが貝を砕くように何度も膝蹴りを撃って、放り投げるように両手を離すと監督は仰向けに倒れ込んだ。 一瞬の出来事だった。9人の男たちは何も出来ずにただ倒されていく。露木は這い蹲って唸るスタッフたちの奥で、怯えた表情の白河を見た。 恐怖によるものなのか、微かに体は震えている。切羽詰まった顔で白河は慌ててジーンズの尻ポケットを弄った。 パチンと音を立てて白河は銀色に光る金属を抜いた。一条が割った窓から差し込む光に照らされて、折りたたみ式のナイフが鋭く光る。露木はそれを見て小さく悲鳴をあげた。 「な、何なんだよ、何なんだよお前!ふざけんなよ!」 切っ先をちらつかせて白河は怒鳴った。廊下のコンクリートに声が反射して、割れた窓から声が漏れていく。彼はナイフを振って一条を遠ざけようとしていたが、何故か一条は怯むことなく白河と距離を詰めていた。 「僕らは同類だろ、女を食い物にする同類だろ!だったら手出すんじゃねぇよ!」 「じゃあ刺してみろよ。」 吐き捨てるように一条が言うと、露木と白河は驚いた表情で彼を見た。一条は震えることもなく、諭すように淡々と続けた。 「てめぇと同類だって言うんなら心は痛まねぇだろ?どうした、刺せよ。」 じりじりと距離が近付いていく。簡単に深い傷を与えることができる武器を持っているにも関わらず、怯えているのは白河だった。何度か指の骨を鳴らして一条は深いため息をついた。 「人を刺す度胸も、誰かを傷つける可能性も考えられねぇなら、そんなおもちゃ持つんじゃねぇよ。」 そう言い終えた瞬間、白河の返事を待つことなく一条は右足を振るった。空を切ってスニーカーの先端が折りたたみナイフの側面を捉える。白河の手から離れたナイフは勢いに任せて壁にぶつかり、反射して床の上を滑っていった。 「あっ、え…」 不利だと思われた立場にいた一条だったが、突然の形勢逆転に白河は呆気にとられてしまう。その隙を見逃さず、一条は右足をぐんと踏み込んで彼と距離を詰めると、右腕を伸ばす。しかし白河も段々と見慣れていたのだろう。一条の右手が来るであろう左側頭部を両腕で覆い、咄嗟に防御の構えをとった。 しかし一条はそれを見越していた。側頭部を守る両腕の真上を這うように、さらに右手を伸ばして白河の後ろ髪を掴んだ。 白河の頭と一条の右腕が、防御する両腕をがっしりと固定する。そのまま手前に引き寄せると一条は左の拳を握りしめ、胃を揺さぶるボディーブローを放った。 「う、がっ…」 その衝撃に白河はしゃがみこんでしまう。膝を落とし、吐き気を催している彼から数歩離れて、一条は再び深いため息をついて吐き捨てた。 「同類として言わせてもらう、ダセェことすんじゃねぇ。」 腹部を押さえて蹲る白河の頭部を、一条は勢いよく振った右足で蹴り飛ばす。丸いサンドバッグのように、道路に立つポールのように、白河は衝撃に負けて首を振りながら倒れていった。 鈍い音を立てて、肉の塊がコンクリートの上に転がる。倒れ込んだ10人の男たちに背を向けて一条は座り込む露木の前に駆け寄った。 「大丈夫か、萌華。」 心配そうに切ない表情を浮かべて、ジーンズの尻ポケットから何かを取り出す。飲みかけのミネラルウォーターの入ったペットボトルだった。キャップを開けて露木の擦り剥いた方の足を立たせると、掌を傷の下に添える。 「滲みるかもしんねーけど、我慢しろよ。」 そう呟いて傷口を洗い流すように水を垂らす。針を刺したような痛みに顔を顰めたものの、彼女はどうにか耐えた。やがて一条はポケットからハンカチを抜いて傷口に優しく当てがうと、何度か血の流れを確認してから言った。 「遅くなってごめんな。」 たったその一言が彼女の心の奥底に宿った不安を掬い上げた。思わず彼に抱きついて、露木は大声をあげて泣いた。小さい十字架のネックレスを依然として握り締めたまま、彼の白いTシャツを濡らしながら、不安を全て零すように彼女は泣き続けた。 その間一条は何も言わず、露木を優しく抱き締めていた。 一頻り泣いて、露木は感謝の言葉を彼に伝えようと顔を上げた。しかし一条はゆっくりと首を横に振って彼女の頭に手を置いた。髪を梳くように優しく撫でてから立ち上がる。彼はそのまま白河の元へ歩み寄ると、パーカーのフードを掴んで無理やり立たせた。 「こっち来い。」 そう吐き捨てて露木の前に彼を放り投げる。力無く倒れ込んだが、白河はゆっくりと起き上がって蹴られた箇所を抑えていた。 彼の隣に立った一条はポケットから携帯を抜いて、画面の上を指先で撫でながら続けた。 「おい、白河。一つ聞きたいことがあるんだが。」 画面を触る手を止め、鋭い視線で白河を見下ろす。 「資料準備室にいたあの女、お前のセフレだよな。」
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