39

1/1
168人が本棚に入れています
本棚に追加
/97ページ

39

側頭部を抑えていた白河はその言葉を聞いて、目を見開いた。驚いた様子で一条を見上げる。しかしすぐに笑いながら誤魔化すように言った。 「そ、そんなわけないっしょ。どこに証拠があるんすか。」 「ここにあるよ。」 コンクリートの床にしゃがみ、一条は持っていた携帯の画面を露木と白河に向ける。再生された動画の真ん中に、資料準備室から飛び出してきた女性が写っていた。その女性は泣きそうな表情で、画面に向かって訴え始めた。 『勇輝くん、一条って人を騙したら付き合ってくれるって言ったじゃん。もう体だけの関係はやめようって言ってくれたよね。なのにどうして、LINE返してくれないの。』 悲痛な叫び声は途中で止まる。携帯をポケットに仕舞って、深くため息がコンクリートに染み込んでいく。 「随分とおかしかったよ。手紙で呼び出されて、俺は資料準備室に行った。もし今まで関係を持っていた人なんだったら、丁重に断ろうと思ってた。だが入ってきたのは違う制服の女子生徒だった。いきなり俺の前でワイシャツのボタンを開け始めたかと思ったら、携帯を取り出して何も言わねぇんだ。しばらくしてLINEの通知音が鳴ったと思ったら、そいつはいきなり部屋から飛び出していった。その後にお前と萌華が入ってきた。どうせお前がLINEで指示を送ったんだろ。つまり白河、お前は交際を餌にしてセフレを焚きつけて、俺に女を差し向けたわけだ。俺と萌華を引き剥がすために。」 露木はあの日のことを思い出していた。白河に手を引かれて資料準備室近くに行き、彼はポケットに手を入れて何かを探っていた。あれは携帯で指示を送るためだったのだろう。それを思い出して、思わず露木は体が震えてしまった。 「そして、萌華をいじめていた連中にもお前は指示を出したよな。」 「えっ。」 咄嗟に彼女は声を漏らしてしまった。一条と関係を持った女子生徒たちに囲まれた昼休みを思い出す。あの時に一人の女子生徒が言った、一条先輩と付き合って浮かれているという言葉。あれは白河が吹き込んだということなのだろうか。一条は答え合わせをするように淡々と続ける。 「俺と関係を持った連中に吹き込んだんだろ。露木萌華は一条と付き合って調子に乗っているって。つーか、これも証拠取れてんだ。言い逃れはできねーぞ。」 鋭い言葉が白河に突き刺さる。彼の言う通り、白河は言い逃れできないほど追い詰められていた。それは驚きから落胆していく白河の表情で理解できた。 露木は精神的なショックを隠しきれなかった。数少ない頼れる存在だと思い込んでいた自分が情けなくなって、彼女は小さくため息をつく。それを見て白河は観念したのか、分かりやすく肩を落として呟いた。 「そっか、もう全部バレてんすね…。」 ゆっくりと顔を上げる。押さえていた掌から微かに血液が垂れていた。それを拭った指先を眺めながら、白河は自らを嘲笑うように続けた。 「正直、気に入らなかったんすよ。色々な女の子と肉体関係を持ってるのにちやほやされている先輩が。そんな時に廊下で楽しそうに会話してる2人を見て、邪魔してやろうって思ったんすよ。ただヤリまくってる奴から女を奪ったらどう思うのか、一丁前に落ち込むのかなって。でも、その気持ちは今も変わってないっすよ。」 体力が回復したのか、白河はその場で立ち上がって一条と向かい合った。キッと睨みつけて一条に刃向かおうと語気を強めながら言う。 「金のやり取りしてセックスしてる先輩が純愛なんて、ちゃんちゃらおかしいっすよ。そういう道を選んだならただセックスだけしてればいいんすよ。それに萌華ちゃんだっておかしいよ。僕は何回も言ったでしょ、こんな最低な奴じゃなくて、あんな女たらしじゃなくて、僕と付き合えばいいって。それなのに萌華ちゃんが一向に目を覚まさないからいけないんだ。だからこうするしかなかったんだ!」 白河は助けを呼ぶような叫び声で、辺りに言葉を散らした。こめかみから流れていく血は彼の顎の先に留まって、一滴ずつコンクリートを濡らし始める。閉め忘れた蛇口から漏れる水を聞くように、露木はその一定のリズムで心を落ち着かせてから深く息を吸った。 「白河くん、それは違うよ。一条先輩はただ性教育をしていただけなの。」 一条を睨みつけていた彼の視線が、ゆっくりと露木に向けられる。彼は表情を歪ませ、やがて首を傾げた。 「はぁ?何言ってんの?萌華ちゃん。」 「先輩は性に関する相談を受けて、それを実践しているだけなの。人には絶対に言えない悩みを解決している。白河くんはさっき同類だって言ってたけど、絶対にそれは違うよ」 「黙れよ!」 言葉尻を待たずに白河は怒りに任せて窓ガラスを蹴破った。再び派手な音が鳴り、透明な星屑のようなガラスの破片は歌舞伎町の青空に映えて、やがて自由落下していく。全ての星屑が落ちて、白河は彼女を見た。 鬼のようだった。 怒りに震えて、下唇を噛んだ白河は顔中の血管を切ってしまいそうな気迫で叫んだ。 「そんなの嘘に決まってるだろ、何が性教育だよ。ただヤリたいからヤッてるだけだろ!いいか、芸能人の授かり婚とかできちゃった結婚とかもそうだよ。まるで偶然みたいに、神からの産物みたいに言ってるが違うだろ!避妊具つけないでセックスしたらガキが出来たもんで、しゃあなしで結婚するってことだろうが。それと同じだよ!都合よく誤魔化すんじゃねぇよ!まともな教育も受けてねぇような奴が性教育とか言ってんじゃねぇ!」 「でも、白河くんは見てないよね。」 あまりの気迫に臆していた露木だったが、どうにか震える喉から言葉を絞り出した。3人の間を冷たい風が吹き抜けていく。コンクリートは冷え切っていた。 「見たことないものを、知らないものを、どうして悪い方向に決めつけるの。確かに話だけ聞いたらそう思われても仕方ないと思う。だけど、無知のまま勝手に判断して、そうやって最終的に人を傷つけるのは最低だよ。」 「じゃあ、萌華ちゃんは見たことがあるっていうの。一条先輩がセックスしてるのを見たことがあるの?」 「あるよ。」 予想だにしない返答だったのだろう、あっさりと頷いた彼女に白河は呆気にとられた様子だった。 「私はこの目で見た。確かに最初は白河くんと同じだったよ、色々な女の人とそういうことをしている最低な人だって。でも、そうじゃなかった。一条先輩はものすごく優しい手つきで、欲望を丸出しにした相手を優しく抱いていた。あの時に印象が変わった。ただ最低な人なんかじゃない、不安があって、それでも丸裸になりたい人だっている。それでもなお悩みはあって、その悩みは決して人に言えないもの。一条先輩はそれを優しく受け入れている。その不安や悩みを柔らかく抱きしめて、肯定してくれるの。でも白河くんは違う。望まない相手をただいたずらにセックスに誘って、それで喜んでもらえると思ってるんでしょう。あなたはただの嘘つきだよ。」 何も言えなくなって、白河は項垂れた。ぐったりと肩を落としてその場に座り込んでしまう。一条はその様子を眺めながら頭を掻いて、ため息をついた。 「まぁ、信じるも信じないも勝手だけどよ。俺は女の子から相談を受けて、きちんと話し合ってからセックスに及んでる。もちろん中には話し合いだけで解決することもあるよ。不安が解消された、悩みを打ち明けることができた、そう言って終わることも何回もある。それにいざセックスになっても俺は一銭も要求しない。相手の悩みを直接解して、不安を直接揉んでやる。良くも悪くも俺にできるのはそれだけだからな。」 ふと顔を上げる。露木はその時、一条の表情に影が差したのを見逃さなかった。どこか寂しい面持ちで白河から目を逸らし、冷たいコンクリートを見下ろす。悲しげな顔で憂う彼はどこか遠くへ去ってしまいそうな雰囲気があった。 その場にしゃがみ込んで、何も答えられないままの白河から離れて、露木の前に立った彼は固い靴紐を解いたような柔らかい笑みを浮かべた。 「行こう、萌華。」 彼女の腕を持ち、ぐるりと肩に回して立ち上がらせる。暖かな一条に抱かれて露木は頬が緩んでしまった。 9人の倒れたスタッフ達と、力無く項垂れた白河を残し、2人は商業ビルから去った。
/97ページ

最初のコメントを投稿しよう!