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大通りがすぐそばに流れ、錆びたフェンスの向こうでタクシーがマグロのように駆け巡っていく。小さな公園のベンチに腰掛け、露木は前に建つラブホテルの外壁を眺めた。よく見るタイル張りの壁の向こうで、人々があられもない姿で乱れている。どこか信じられない話だと思って、彼女は小さくため息をついた。 「はい、これ飲みな。」 自動販売機で飲料を購入し、ペットボトルをこちらに差し出して一条は彼女の隣に腰掛ける。大容量が売りだという麦茶を受け取って、露木は頭を下げた。 「先輩。ありがとうございます。」 「ん?何がよ。」 「いや、わざわざ助けに来てくれて…」 ああ、と唸って一条はポケットから缶コーヒーを取り出す。プルトップを開けて苦い香りが露木の鼻先を掠めた。 「まぁ、礼を言うなら俺じゃなくて岡村に言いな。」 思わず彼女は一条を見た。どうして今彼の口から岡村恵里の名前が出てくるのか、そんな疑問を抱いた表情を見て彼は笑って続けた。 「冷静に考えてみろよ。あの女が白河のセフレだとか、いじめを指示したのがあいつだったとか、俺がそんな情報仕入れるとかできないっしょ。」 「え、じゃあ…恵里が手伝ってくれた、ってことですか?」 こくりと頷いて、缶コーヒーを一口含む。鼻から息を抜いてラブホテルの外壁に目をやった。 「あの日以降、全く話さなくなった俺と萌華に気使って話しかけてきたんだ。本当に約束を破ったのかって。でも正直に話したら岡村は信じてくれてさ。そこであの女のことを話した。あいつ、将来探偵になれるよ。連絡先を交換して情報を共有しましょうとか言って、その日の夜にはあの女が六石学院高校の生徒じゃなくて別の学校であること、該当する女と白河が宇田川町のラブホ街で一緒に歩いていた情報を送ってきた。それに加えて女子トイレで萌華を取り囲んでいた奴らにも話を聞いたらしくて、全員白河に唆されたっていう証言を得た。それで俺と岡村は一緒に行動して、いじめを行った連中とセフレに直接話を伺った、って感じ。」 秋の寂しい風が公園の中に滑り込み、2人の足元を緩く撫でていく。歌舞伎町の喧騒は風に揺れる木々のようだった。 「そうなんだ…恵里が…。」 「高校卒業したら警察になれるよ、あいつ。」 「確かに、そうですね。」 秋空の下、2人は息を吐くように笑い合った。欲望が雨のように降る街の中で、露木たちの声は聞こえない。あのタイルがセックスに身を焦がす男女を隠匿するように、2人の会話は人々の声に隠れていた。 乾いた喉に冷えた麦茶を流し込む。何度も叫んでいたためか、食道の形がはっきりと分かるほどだった。 「あ、先輩。」 「何だよ。」 「どうして助けに来れたんですか。」 とても偶然とは思えなかった。廊下で十字架のネックレスを握って彼の名を叫んでいた時も、露木は心の中で彼が来ない可能性も考えていた。 「ああ、それな…まぁ。」 呆れたように笑って彼は明るい茶髪を片手で乱す。口元を緩ませて彼は露木を見た。 「台湾から上陸したっていうスイーツを使った店が歌舞伎町に出来るって岡村から聞いてよ。もし仲直りしたら2人で行ってみてくださいって、言われてさ。だから、その、下見に来たっていうか…。萌華と一緒に来たくてさ…。」 最後の方はぶつぶつと呟いていたため、歌舞伎町の喧騒に彼の声は紛れてしまった。しかし一条の言葉を隣でしっかりと聞き取っていた露木は、嬉しさに表情を緩ませて微笑んだ。 「まぁ、あれだ。そこでたまたまお前と白河を見つけてさ。これはまずいと思って尾行してよ。でも正直萌華が俺の名前呼ばなかったらどこにいるかなんて分からなかったよ。」 そっか、と呟いて露木はポケットに手を入れた。中から十字架のネックレスを取り出して掌にじゃらじゃらと広げる。木々の隙間から差す日の光に照らされて、十字架の真ん中がキラリと光った。 「先輩の言う通り、このネックレス凄いですね。」 「おお。すげーだろ、それ。貰い物だけどな。」 「そうなんですか?」 「ああ。俺小学生の時めちゃくちゃ貧乏でさ。まぁ今も変わらねぇけど。それが原因でいじめられてたんだ。でも近所に住んでたお兄さんが俺を庇ってくれて、それでこれをくれたんだ。これを握って心の中で助けてって叫べ、そうしたらすぐに駆けつける、ってな。」 彼がいじめを受けていたことを知って、露木はふと考えた。自分は彼のことを何も知らない。それが少しだけ悲しくて、それ以上に彼のことをもっと知りたいと彼女は心の中で思った。 ゆったりとした時間が流れていく。ぼんやりとラブホテルを眺める一条だったが、露木は思い出したかのように突然立ち上がり、彼の前に立った。驚いて目を見開く彼を見て、彼女は深々と頭を下げる。 「何だよ急に。」 「すみませんでした。白河くんにあんなこと言っておいて、私も先輩のこと疑ってました。」 頭を上げることなく、露木は足元を睨んでいた。あの日軽蔑した自分は間違っていた。その事実は揺るがないと彼女は考えていた。 「いいよ、顔上げろよ。」 諦めたような声を聞いて、顔を上げた露木は前に座る彼を見た。まるで自らを卑下するように彼は言う。 「あれを見て信じろって、無理な話だもんな。」 「でも、私のやり方も最低だなって思ったんです。」 「やり方?」 「なんか、よく調べもせずに一条先輩を最低な人だと決めつけて、白河くんと取っ替え引っ替えで遊んで。2人に媚を売ってる感じがして、本当に最低なのは私なんだなって。」 深いため息をついて公園の真ん中に立ち尽くす。露木はどちらにもいい顔をしていたという自分が許せず、罪悪感を覚えていた。一条を信じていればこんなことにはならなかったのかもしれない。その負の思いが鮭の小骨のように刺さって離れずにいた。 砂利を踏む音が鳴る。一条は彼女の頭に手を置いて、子犬のようにわしゃわしゃと撫でた。目を瞑って抵抗しない彼女を見てふっと笑い、彼は少しだけ寂しい表情で言った。 「人間ってそういう生き物だろ。友達も恋人もいくらでも選べる。でも、何があっても親だけは選べない。避けられない運命があるなら偶然の出会いもある。その中でずっと一緒にいたい人を選ぶわけだから、仕方ねぇよ。」 露木の頭の中で、夏休みに聞いた加藤の言葉が蘇る。親は選べないが、友人や恋人は選ぶことができる。しかし同じ内容でも彼の言葉には妙な重さがあった。 そう思ったのは彼の表情が切なく、寂しそうに見えたからだった。 やがて飲み干した缶コーヒーをぐしゃりと潰して彼は言った。 「よし、帰ろうぜ。」 退屈な授業が終わったように、欠伸を噛み殺して一条は公園から出て行く。露木はその背中を追いかけながら頭の中にあの図を思い浮かべていた。 3つの関係性に分かれた円形。一度は他人の方へ倒れてしまったと彼女は思い込んでいた。そしてその位置が元に戻ることはない。夏休み明けの資料準備室で見たあの日から終わってしまったのかもしれない。露木は毎夜のように後悔を抱いていた。 しかし自分という枝は、まだどこにも倒れていなかった。 一条が駆けつけて彼女を救い出し、本音を交わして話し合い、誤解が全て解けた。 だからこそ露木という枝は円の中心に突き刺さったままである。 新宿駅へと向かう道のりで露木は考えた。 他人の方へ倒れていないのであれば、これから友達と恋人、どちらに倒れるのだろうか。 思わず口元を掌で覆う。一条の彼女になるという可能性、そんな想像が露木の頭の中で広がっていく。 「おい、萌華。聞いてんのか。」 「えっ?」 咄嗟に声が漏れ、彼女は一条を見上げた。既に新宿駅の改札が目の前にある。彼は明るい茶髪を掻きながら続けた。 「いやだから、もう帰るんだろ?」 「ええ、か、帰りますよ。」 「了解。俺これから予定あるからさ、ここでバイバイな。」 「あ、はい。分かりました…。」 露木はしょんぼりとした表情で呟いた。どことなく寂しそうな面持ちに、一条は思わず吹き出すように笑ってしまう。すると彼女はムッと唇を尖らせた。 「何がおかしいんですか。」 「いや、別に。」 そう言ってから彼はポケットに手を入れ、携帯を取り出した。画面を擦るようにしてから彼女の方に向ける。表示されたのは歪な形のQRコードだった。 「LINE交換しよーぜ。」 何故か画面に浮かぶ黒い歪な図が貴重なものに見えて、露木は反応に遅れてしまった。慌てて携帯を取り出してQRコードを読み取っていく。枠に収まると1秒足らずで露木の携帯の画面にアイコンが浮かび上がった。 「ま、追加しといて。」 景、とだけ書かれた名前の上には誰かが撮影した一条の後ろ姿が収まっている。その向こうには目を見張るほどの青空が広がっていた。 「分かりました、追加しますね。」 「おう。じゃあ、また学校で。」 片手を挙げて彼は来た道を戻っていく。彼女はその背中が人混みの中に消えたのを見届けてから、改札をくぐった。横に広がる大きな階段を上がりながら、片手に持っていた携帯を再び見る。 両手を広げて空を抱きかかえるようにしている彼の写真を見て、露木は微笑みを隠しきれなかった。
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