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「えっ、じゃあまだ付き合ってないの?」 夏服の期間が終わり、大勢の生徒たちが冬服に衣替えしている。半袖に見慣れていたからか、露木はクラスメイトたちの肌が見えていないことに微かな違和感を覚えていた。 しかし昼休みの喧騒は相変わらずで、少しだけ開いた窓の隙間から吹く10月の風を浴びながら、岡村の机の上に弁当箱を置いて、露木は白い箸を手に取った。 「うん。連絡先を交換しただけ。」 「えー、折角お膳立てしたのに。っていうわけでもないかぁ。」 「で、でも私は別に、一条先輩のこと好きじゃないもん。」 誰が見ても露木は強がっている。しかし彼女はそれを悟られないように、冷凍食品の唐揚げを頬張った。数時間前まで白い靄が付いているほど冷えていた肉の塊は、彼女の口内で程良い肉汁を零す。 「ん?な、何。」 目を細めて岡村は彼女を睨む。獲物を狙うような視線を送り、岡村は小さくため息をついてから言った。 「じゃあ聞くけど。もし一条先輩が誰かと付き合って、ものすごくイチャイチャしてたらどう思う?」 「それは嫌。」 「じゃあ好きなんじゃん。」 ものの数秒で論破されてしまった露木は咀嚼をすることしかできなかった。唐揚げを頬張りながら口籠ってしまう。 「もうさ、素直になりなよ。あの人が女の子をお金で買ってるっていう噂を仕入れたのは私だし、それで最低だっていう第一印象を持っちゃったのは申し訳ないと思ってるけど、でもこればっかりは仕方ないじゃん。好きになったなら思いは素直に伝えようよ。告白の文章なら私も考えるよ。」 「そ、それはせめて私が考えたいよ。」 「じゃあ付き合いたいってことでいいよね?」 唇を尖らせて露木は黙り込む。頭の中に浮かんでいたのは歴史の授業で習ったばかりの、備中高松城の戦いだった。天正10年、織田信長の命を受けて家臣の羽柴秀吉は毛利氏配下にあった清水氏の守備する備中高松城を、水攻めによって包囲した。岡村の言葉に包囲され、露木は小さく頷くことしかできなかった。 彼女は妙に納得したのか、何度も頷いて笑みを浮かべた。 「いいことだね。萌華のこと好きだっていう証拠もあるんでしょ?」 「証拠って言われても…」 咄嗟に露木は5日前の出来事を思い出した。あの一件を知って岡村はしつこいほど彼女を心配していた。 一条があのビルに駆けつけ、10人の男たちを前に言った言葉が蘇る。露木は思い出しながら呟いた。 「俺の好きな女に手出しやがって、って言ってた。」 「ちょっと、それはもうビンゴだよ。トリプルリーチでダブルビンゴだよ。」 「何それ。もう、ちょっとトイレ行ってくるね。」 箸を置いて立ち上がり、露木は教室を出る。廊下を渡ってトイレに向かおうとした時、1年D組の教室から1人の男子生徒が飛び出してきた。露木は思わず名も知らない彼に話しかけた。 「ねぇ、ちょっといい?」 「ん?どうしたの。」 「白河くんって、学校来てる?」 あー、と言って男子生徒はD組の中に目をやる。しかし答えは分かっていた。 「先週の金曜日から来てないなぁ。なんか、熱があるとかなんとか言ってたけど。」 そう言うと男子生徒は誰かに呼ばれたようだった。大きく手を振って返事をしながら、彼は廊下の奥に進んで行く。小さく礼を言ってから露木はD組を見渡した。 あれから白河は学校に来ていない。それが少しだけ悲しくなって、昼休みの喧騒に紛れるほど小さなため息をつく。あんなことがあったにも関わらず何故か露木は寂しさを覚えていた。 決して彼のやったことを許したわけではなかった。今でも露木はあの日の出来事を思い出して、恐怖に襲われることもある。しかしあの日から白河勇輝という存在が世界から消えてしまったような感覚で、それが彼女にとってひどく気持ち悪いものだった。 個室に入ってスカートをたくし上げ、檸檬を限界まで薄めたような柄のパンツを下ろして便座に腰を下ろす。緩やかに漏れる尿を待ちながら彼女は思い立った。 一条景としっかり向き合って、彼と交際し、あの日の出来事を清算しよう。便器に向かって迸る尿を散らしながら露木はそう決意した。
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