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アトラクションが多く並ぶ敷地を抜けて、人混みの中を掻き分けるように進みながら、隣を歩く一条は頻りにワイシャツの裾を気にしていた。 「なんでこんなに強く握るんだよ。洗ってねぇみたいだろ。」 暗いお化け屋敷を歩いている中で、露木が握り締めていたワイシャツの裾は、洗濯を忘れられたシワだらけの衣類のようだった。何度もそれを掌で伸ばしながら、彼は唇を尖らせている。露木は自動販売機で購入したジャスミンティーを口にして、喉を潤した。 「だって怖いんですもん。急にわーって来るし。」 「そういうもんだろ。普通に話しかけてくるお化け役なんているわけねーじゃん。」 2人の真横を小学生たちが無邪気に駆け抜けていく。その先には動物たちが小屋に分けられて展示されていた。何かとびっきりおかしなことがあったように、小学生たちははしゃいでいる。 「うわ、あそこすげーな。」 自然と集まっていく人々の先には深い緑色の池があった。低い銀色の柵の向こうで無数のフラミンゴが立ち尽くしている。何を考えているのか分からないピンク色の鳥を、大勢の観光客が写真に収めていた。 一条も例外ではなかった。小さな歓声をあげて、携帯を取り出してはフラミンゴを画角に収めている。露木も隣に立ってフラミンゴを撮影した。 「暇そうだなぁ。なんで片足なんだろうな。」 「気温が低くなった時に体温調節をしなきゃいけなくて、そのために片足を羽毛に入れて暖をとるそうですよ。」 「へぇ。詳しいな。」 携帯を仕舞って手前に立つフラミンゴを見る。嘴で自らの羽毛を突くように、頻りに掻いていた。 「だって調べてきましたもん。」 「マジ?」 こくりと彼女は頷く。ほんの少しばかり動物の独特な匂いがする中で、一条は息を吐くように笑う。首を傾げた露木だったが、彼は遠くのフラミンゴを撮影しながら呟いた。 「可愛いよな、萌華って。」 その言葉に思わず顔を伏せ、露木は抑えきれずに頬を緩ませた。どう返せばいいかも分からずに拳を握って彼の二の腕にぶつける。一条は大袈裟なリアクションをとって、左腕を抑えた。 「いってーなお前。褒めてんだよこっちは。」 「もう、先輩のバカ。」 振り返ることなく柵の前から離れ、露木はキャットワールドと呼ばれるスペースに向かった。広々としたコンクリートの周りには木に束縛されているようなレンガの平屋があり、窓ガラスの向こうでホワイトタイガーがのんびりとくつろいでいる。 「おい!ホワイトタイガーじゃん!」 一条は抑えきれないといったように駆け出すと、小学生と並んでガラスにへばりついた。慌てて露木は後を追った。 「ちょっと、どうしたんですかそんなに慌てて。」 「そりゃ慌てるだろ、ホワイトタイガーだぞ?見ろよあれ。超かっけーじゃん…。」 そう言って露木の方を振り返る彼の笑顔は、今までに見たことがないほど輝いていた。少年のように純粋な笑みで視線をホワイトタイガーに戻し、焦ったように携帯を取り出す。その姿が可愛らしく思えて、彼女は掌で口元を押さえて微笑んだ。 ぐるりと回り込んで、ハリネズミにラクダなど、数多くの動物たちが生活している檻の前を巡った。その間も彼は幼い子のようにはしゃいでおり、徐々に露木も箍が外れたように頬を緩ませて、同じようにはしゃいでいた。 道の先にアカゲザルと呼ばれる、日本で野生化した外来種の猿がたむろする、切り立った岩の塔が見える。そこへ真っ直ぐ歩いて行こうとした時、露木は隣に一条がいないことに気が付いた。 来た道を振り返る。彼の背中は崖の中に流れる広大な海のようなスペースの前に立っていた。柵の手前で携帯を手に取ることなく、ただぼんやりと眺めている。 彼の向こうに視線をやる。岩の表面に点々と建っていたのはペンギンだった。 「先輩、ペンギン好きなんですか?」 「ああ…なんで、こんなに可愛いんだろうな…。」 先程の興奮が嘘のように、しみじみとペンギンを眺めている。すると岩の向こうから飼育員の女性が顔を覗かせ、大きなバケツを手にヘッドマイク越しに口を開いた。 「それでは、25組様限定でペンギンの餌やりイベントを行いたいと思います。こちらの方へお並びください。」 参加するかどうかを聞こうとした彼女だったが、一条の動きはスムーズだった。一切迷うことなく飼育員の女性が指定した場所へと移動していく。 ペンギン舎の中央には階段がかかっており、ペンギンたちが暮らす街の真ん中を自由に行き来できるようになっている。そこにすぐさま列ができて、餌やりイベントの参加は締め切られた。 冷凍の鯵が数匹入っている小さなバケツを受け取る。ペンギンたちも餌の時間だと分かっているのだろう、それまであちこちに点々としていた彼らは、まるで磁石で引き寄せられたかのように柵の前に集まってきた。皆幼い子供のように見上げながら、今か今かと餌を待っている。 「それでは餌をあげてください。」 柔らかな声で指示が飛ぶ。バケツから冷えた鯵を一匹摘んで、露木は柵の前に立つペンギンたちに差し出した。 餌の数は多いものの、すぐさま奪い合いが始まる。しかし殺伐とした印象はなかった。皆無邪気に嘴を開いて、しつこく咀嚼しながら鯵を丸ごと飲み込んでいく。その様子に露木は思わず笑ってしまった。 家族連れだけでなく、20歳を超えているであろうカップルたちも皆仲睦まじく餌をやっている中、隣でペンギンを優しく見守りながら鯵を差し出す一条の横顔は、親戚の子供達を見ているような、暖かい面持ちだった。それが愛おしく感じて、彼女は思わず見惚れていた。 「そんなに好きなんですね、知らなかったです。」 何故か露木は喜びを感じていた。それは2人の関係性を改めて考えた上でのことだった。 一度は最低だと告げて軽蔑し、それでも何故か意気投合した2人は共に放課後を過ごした。しかしたった一度のすれ違いで離れてしまい、もう元には戻らないのかもしれないと不安に思う日もあった。しかしそれから向き合った2人は、お互い好意を明かさないまま同じ時間を過ごしている。 そんな中、徐々に相手の趣味嗜好などを知ることができるというのは、2人だけの時間を過ごしたい露木にとってとても嬉しいことであった。 「だってよ、ペンギンの歩き方見ただろ。ペタペタ歩いてんだよ。めちゃくちゃ可愛いんだよなぁ…赤ちゃんの時とかもっこもこなんだよな…。」 頬を緩ませて、嬉しそうに彼は呟く。露木はその横顔を初めて出会った日と重ねていた。 資料準備室で、瞼まで伸ばした明るい茶髪を揺らしながら、円らな瞳で女子生徒を見下ろしていた。すらりとした鼻筋の下にある控えめな唇は、激しい腰の動きで吐息を零していた。 しかし今は、ペンギンの生態を説明しながら、時折露木の方を見て自慢するように笑っている。彼女はその笑顔を見てようやく確信した。 一条景のことが、大好きだ。
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