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3
4時間目の数学が終わり、クラスメイトたちがあちこちに散っていく。廊下からは激しい雨のように足音が鳴り響き、様々な言葉が混じる雑音が校庭から聞こえている。朝8時半から拘束され続けていた生徒たちはポップコーンのように弾けていた。
「あ、萌華のそれ。美味しいやつだ。」
円形の弁当箱はピンク色で、岡村は白い箸を取り出すと露木の弁当箱を覗き込んだ。水色の弁当箱に詰め込まれた冷凍食品の中で、骨付きの鶏肉が並んでいる。
「これね。幼稚園の時から好きなの。」
「あー分かる。なんだかんだこれに落ち着くよね。」
教室の廊下側、岡村の机を挟んで2人は昼食をとり始めた。窓際の後ろの席では大人しい男子生徒たちが円を描くようにして、昼食をとりながら携帯ゲームで盛り上がっている。会話の内容こそ分からなかったが、何かとてつもなくおかしなことがあったように、突き上げるような笑い声が飛んでいる。岡村は丁寧に切られた出し巻き卵を1つ摘んで咀嚼すると、首を傾げながら言った。
「でさ、いた?」
「何が?」
「いやいや、気になる人。いるのかなぁって。」
いないよ、と否定しようとしたところで露木は言葉に詰まった。篝火のように脳内で浮かび上がったのは六石棟の資料準備室で見た一条という男の微笑であった。
その様子を察したのか、岡村は妙に口元を緩ませながら続けた。
「ほら、やっぱりいるんじゃん。」
そう言いながら岡村はピンク色の手帳を取り出す。ページを捲って真ん中を強く押すと、事情聴取を始めるかのように低いトーンに切り替えた。
「さぁ私に話してみなさい。」
「いや、別にかっこいいからとかじゃないんだけど…」
「前置きはいいよ、本題を話しなさい。ほれほれ。」
煽るようにしながら岡村はページをゆっくりと捲っていく。冷凍の状態から既に焼き色がついた鶏肉を摘み、露木は恐る恐る言う。
「えっと、さ。一条っていう人知ってる?」
その名前を言った途端、先程まで微笑んでいた岡村の笑みが消えた。まるで何かに脅されたように固まってしまう。ページを捲る手も止まり、岡村は一度だけため息をついた。
「いや、本当にかっこいいとかそういうのじゃなくてさ。」
「うーんと…まぁ、いいとは思うけど、というか。でも一条先輩はやめておいた方がいいよ。」
何枚かページを捲る。ある文章の上に指先を置いて、なぞるようにしながら言った。
「一条景、3年A組。顔は分からないけど確かに女子人気は高いよ。だけど…私はやめておいた方がいいと思うな。」
何度も念押しするため、露木はむしろ気になってしまった。疑問を抱くように露木は問いかけた。
「えっと、なんでそんなにダメなの?」
どことなく理由は分かっていたものの、一条が先輩であることも知らなかったため、妙に気になってしまう。そんな露木に念を押すように岡村は口を開いた。男子生徒たちの盛り上がりに溶け込むように彼女の言葉が沈んでいく。
「あくまでも噂だけど、一条先輩はこの学校の女の子をお金で買ってるらしいの。」
「え?本当…?」
岡村は力強く頷く。しかし心のどこかで信じられず、露木は呆れたように笑った。
「いやいや、そんなことある?だってそれ犯罪じゃないの。」
「でも実際、一条先輩としたっていう生徒は多いみたいだよ。3年の女子生徒はほぼ全員だっていう噂だし。」
「それどうせ噂でしょ?そんなことあるわけないよ。」
男子生徒たちの盛り上がりが収まっていく。校庭では絶え間なくはしゃぐ声が鳴っており、無音にならない教室の隅で露木は何故か一条を擁護するように言っていたが、それでも頭の中で昨日の映像は剥がれなかった。
放課後の資料準備室で体を重ねる、3年生の一条景。明るい茶髪とピアス、そして半分だけ露出した腰を揺らしながら、露木を見て妖しく微笑む彼なら、本当に女子生徒を金で買っているかもしれない。そんな疑惑はどうしても消えなかった。
手帳をパタンと閉じ、岡村は箸を手にしておかずを上から眺めながら言った。
「でも火のないところに煙は立たないって言うじゃん。関わらない方が身のためだよ。」
「そういうもんかなぁ…。」
骨付きの鶏肉を齧ると、くたびれた皮とぷりっとした肉の感触、そしてぴりっとした胡椒の風味が口いっぱいに広がった。咀嚼を繰り返しながら、露木は一条景の噂を頭の片隅に置いていた。
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