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彼が腰掛けているマットの隣に腰を下ろす。折り畳まれた白いマットの上で、露木はスカートの上に置いた手を握った。背後から差す橙の光が暖かい。緊張によるものなのか、期待による震えなのか、今の彼女には分からなかった。
「なんか、あれだよな。皆忙しそうだよな。」
「そ、そうですね。」
「うちのクラスも大変でよ。推薦で大学決まってるやつと、まだ受験控えてるやつらでバチバチでさ。気まずいんだよな。」
「先輩は、もう終わってるんですか。受験。」
「いいや。これからだからさ、余計にうるせーんだよなぁ。」
辿々しい会話が続いていく。その間も露木は彼を見れず、握り締めた手の甲を眺めていた。いつもの放課後とは違った喧騒は昼休みのようで、中学校の時とは違った文化祭前の騒がしさに、まだ彼女は慣れていなかった。
視線だけ動かし、彼の足を見る。どことなく柔らかな甘い香りがするのは、彼の制服からだろうか。隣からのその匂いに露木は目眩がしてしまいそうだった。
「なぁ、萌華。」
「は、はい。なんですか。」
「俺の第一印象ってどうだった。」
「第一印象、ですか…。」
露木の頭の中に5ヶ月前の映像が浮かぶ。机の奥に押し込まれたプリントを引っ張り出すように、彼女は淡々と呟いた。
「女性をお金で買う卑劣な人で、とにかく最低で意地が悪くて、性格も最低でどうしようもなくて…」
「はい、了解。一旦ストップね。すごいな勢いが。畳み掛けてくるじゃん。」
「だって第一印象ですもん。そうなりますって。」
「ああ、何だろうな。聞いた俺が間違ってたのかな。まぁでもそんなもんか。」
一条は諦めたように肩を落とす。それが少しおかしくて、露木は力が抜けて笑ってしまった。緊張が解れて握り締めた掌が緩んでいく。露木は急いで付け加えた。
「今は違いますから。あくまでも第一印象なんで。」
「じゃあ今はどうなんだよ。」
「えっ、今…」
その返しに思わず彼女は口籠る。資料準備室に並んで座る2人を包む日の光は扉の方へ影を作り出し、頭が重なっていた。
様々な言葉が彼女の頭の中に浮かび上がる。どの褒め言葉も彼に当てはまっているように感じていたが、何故かどれも口にしたくないと感じていた。
だからこそ露木は息を飲んで、隣に座る彼の目を見て言った。
「今は正反対です。」
誰かのはしゃぐ声が資料準備室の中に染み込む。一瞬間が空いて、一条は冷静に答えた。
「えっと、適当に答えてる…?」
「違いますよ!でも、本当に全部ひっくり返ったんです。」
そう言ってワイシャツの下からネックレスを抜く。露木はそれを眺めながらこの5ヶ月を思い出していた。
「街ですれ違うほとんどの人が、第一印象で終わると思うんです。その人のことをよく知らないまま生涯を終えてしまう。これはきっと逆もそうで、私のことをよく知らないまま終わる人がほとんどだと思います。でもそれをいちいち悲しんだり寂しく思う暇はないから、だから、知りたいと思った人のことはとことん知りたい。私にとってその初めての人が一条先輩だったんです。」
スカートの上でぎゅっと拳を握る。誰かに何かを伝えるという行為は、自分の感情を酷使するものだった。それを嘲笑うかのように校内のはしゃぎ声は増していた。
「多分、最初に最低だとか軽蔑していた時点で気になっていたと思うんです。自分が今まで出会わなかった人だから、気になって目で追うようになったんです。それで話してみて、一緒に過ごすようになって、徐々に印象が反対に変わっていった。本当は誰よりも優しいけど不器用で、それでも誰かのために自分を犠牲にして。それでいて子供みたいに笑う人で。そして何よりもそれを知ることができて、本当に嬉しかったんです。ホッとしたり驚いたり、私も同じように笑ったり。そんな自分が好きなんです。」
背中は既に暖かく、それが2人の背中を押しているようだった。
そっか、と呟いて一条は後ろに手をつく。ぐっと体を伸ばしてため息をついた。露木の言葉は資料準備室の中で空気に混じって浮かんでいて、それを取り込むように深呼吸をした彼は立ち上がり、彼女を方を振り返った。
「俺は萌華の第一印象と今の印象、何も変わってねーよ。」
その時に露木は不思議な感覚を味わった。それは今まで聞こえていた校内の喧騒が突然止み、資料準備室の時が止まったような、他を隔絶するような空間だった。2人の息遣いと鼓動だけが大聖堂のように響き渡る。緊張のせいで早くなっていく心臓の音が聞こえないようにと願っていた露木だったが、それは彼の言葉に掻き消された。
「出会った時も今も、俺は萌華のことが好きだ。」
一条の言葉だけが真っ直ぐ彼女の耳の中に滑り込んで、やがて色を帯びていく。それは背後から差す日の光よりも暖かで、全てを包み込む優しい橙色だった。言葉の意味を理解して露木は目を見開いたが、彼は変わらない口調で続けた。
「どんなに最低だと言われても、どれだけ軽蔑されても、俺の気持ちは変わらなかった、自分でも不思議だった。一目惚れだったんだと思う。だから俺は萌華と何度も話をしたかった。それくらい、おかしくなるくらい好きになってた。」
ようやく彼の行動の謎を知り、露木は小さく頷いた。周りの目を気にせずに何度も話しかけてきたのは至極簡単な理由であった。そんな思いを吐露してどこか照れくさそうに、一条は頭を掻いて続ける。
「誰かに性教育をするよりも萌華と共に過ごしたい。その笑顔も怒った顔も全部を見ていたい。でも俺はまだ萌華のことを知らない。なんの食べ物が好きなのか、どういう趣味があるのか、どんな過去を送ってきたのか、まだ何も知らないままだ。だから…」
露木の前でしゃがみこむ。彼女を少しだけ見上げて、唾を飲み込んでから一条は呟いた。
「だから、ずっと俺の隣で色々な表情を見せてくれないか。」
スカートの上で固まっていた彼女の手の甲を、彼の掌が優しく覆う。その温かな感触が、愛おしく感じる視線が、一条景の笑顔が、彼女にとって宝物のように感じた。
無理やり拳を開かせて、露木の手をぎゅっと握る。橙の光に照らされた彼の笑顔は夕陽などなくても輝いていた。
「俺と付き合ってくれないか。」
露木は自分でも不思議に感じていた。待ち望んでいたその言葉を受けて、喜びよりも安堵が勝っていたのだった。しかしそれは微かな不安があったのだろう。もしかしたら彼は自分のことなど好きではないのかもしれない。そんな言いようのない、気付けば靴の側面に付着しているような泥のような、不安が彼のその一言で洗い流されていく。
何故か彼の姿が二重に見えたものの、気に留めることなく露木は彼の手を握り返して、一度だけ頷いた。
「はい。喜んで。」
自分の表情は見えないものの、露木は今彼に笑顔を向けているのだろうと、顔の筋肉から判断できた。涙腺と頬が緩んで、そのみっともない笑顔を彼に見せているこの時間が大切だと、彼女は確信していた。
それから2人は言葉を交わすことなく、疲れたようにしばらく笑い合っていた。夕焼けチャイムがどこからともなく鳴り響き、それを合図に資料準備室を出て六石棟から校舎へと戻る廊下の道中で、2人は繋いだ手を離さなかった。
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