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いつもより冷えている朝の空気は肌の上をチクリと刺していた。痛みに近い風を浴びながら、住宅街を抜けて校舎に入る。いつも見る校門はチープな造りの柱で彩られており、大きな垂れ幕がかかっている。そこには大きな文字で今回の学園祭の名前が書かれていた。既に大勢の生徒たちがあちこちで準備を始めている。 露木は一度教室に荷物を置いてから、1階に降りて六石棟に続く廊下を進んでいく。いつもは授業以外の時間は閑散としているものの、学園祭当日ということもあってか喧騒に包まれていた。 武芸室は一面に薄い緑のマットが敷かれ、普段は柔道の授業が行われている中には、幾つかの長机が置かれている。その周りには福祉委員会の生徒たちが既に集まっていた。露木は机の向こうに立つ委員長に声をかけた。 「おはようございます。」 「ああ、露木さん。おはよう。とりあえず売り物全部並べてもらえる?」 一度だけ返事をして、露木は作業に取り掛かった。机の下に置かれたダンボールの中には、透明な袋に詰められたお茶菓子がびっしりと入っており、予め決められた配置にお茶菓子を揃えていく。 「はいはい、皆揃ってるね。」 武芸室に入ってきた京本先生は手を叩いて注目を集めた。福祉委員の生徒達は彼を見て、思わず固まってしまった。代表して委員長が口を開く。 「先生…その格好は?」 「ああ、演劇部にゲスト出演してくれって頼まれたんだ。何だっけ。マフィアがどうとか。闇社会の仕事人みたいな感じ。」 黒いハットを斜めに被り、目元を隠した京本先生は全身を黒に包んでいた。ロングコートの裾をたなびかせて、何度かポーズを決める。 「あれ、あんまりウケないな…まぁいいや。一応今回は茶道部との共同企画になってるから、ここでお茶菓子を購入して、茶道部に行っていただく。そちらへ誘導する係は1年生にやってもらおうかな。茶道部はすぐ隣にあるから分かるよね。」 武芸室の右手にはこじんまりとした扉があり、その向こうには一面畳が広がっているらしい。ほとんどの生徒が利用しない部屋だった。 「先生はその格好で接客するんですか?」 「いやいや、さすがに着替えるよ。これからリハーサルなんだ。シフトが終わったら皆見に来てね。体育館で午後1時からやるからさ。それじゃ。」 コートを翻し、京本先生は武芸室から出て行く。彼の姿が消えてようやく武芸室の中に笑いが起こった。 「意外と似合ってなかった?」 「確かに。時代劇に出てきそう。」 「それじゃあの格好じゃないでしょ。もっと和風な感じ。」 「あー、それも合うね。」 談笑と共に作業は続いていく。抹茶がびっしりとコーティングされた小さいエクレアを行儀よく並べていると、背後から声がかかった。 「露木さん、それ手伝うよ。」 他のクラスの女子生徒たちが談笑を続けながらやってくる。名前も知らなかったが、露木はどこか嬉しく感じた。 「うん。ありがとう。」 「さっきの京本先生、すごかったよね。」 「確かに。私は似合ってたと思うな。」 4人の女子生徒たちに混ざりながら、露木は考えていた。福祉委員会の生徒たちとは何も繋がりはなく、特に会話をすることはなかった。しかし今彼女たちと会話している露木は、本当は寂しかったのかもしれないと感じていた。 誰かと話さなければ、向き合わなければ分からないこともある。 それはこの5ヶ月で彼女が学んだことであった。 エクレアを並び終え、露木は次のダンボールへ手を伸ばそうとした。 「露木さん、ちょっといい?」 朝から既に疲れたような表情を浮かべる委員長は、プリントを片手にあちこちへ指示を送っていた。彼女は7時半よりも前から学校に来ているのだろう。 「はい。何でしょうか。」 「資料準備室から用紙入れを取ってきてくれない?今手が離せなくて。」 「分かりました。」 一度だけ返事をして武芸室を出る。すぐ右手にある扉を開けて、誰もいない資料準備室の中に入った。 朝の薄い光が窓から差し込む。2つの棚の間に立って、彼女は小さくため息をついた。 一条景と交際を始めて2週間が経過していた。 あれから何度か放課後のデートを過ごし、休日も一緒に過ごす時間が増えていった。ただの先輩後輩という関係性ではなく、恋人同士の時間。この毎日が信じられないほど楽しいのは全て彼の存在があったからだった。 左手の棚に触れ、5ヶ月前を思い出す。 2人の関係はこの部屋から始まり、様々な出来事を経て、今は交際関係にある。きちんと人として接して、腹を割って本音を見せ合って、真正面から向き合った。 それはこの5ヶ月で一条景が教えてくれたことであった。 出会いと交際が始まった書類だらけの部屋の中で、露木は思わず微笑んでしまった。委員長からの言伝で棚から手に取った棚を抱え込んで、自然と緩んでしまう頰が元に戻るまで、彼女が部屋を出ることはなかった。
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