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学園祭が始まって数時間が経ち、客足はみるみるうちに増えていった。どの教室も慌ただしく人が出入りしており、廊下には六石学院の生徒だけではなく、他校の生徒や父兄なども大勢溢れ返っている。皆パンフレットを片手にあちこちを見て回っていた。 「それではごゆっくりどうぞ。」 繋ぎ合わせた2つの机には藍色の布がかかっており、グラスに入った抹茶ラテを置いて露木は頭を下げる。彼女が着ている浴衣は目を見張るほどの白に淡い青と紫、黄色の桜が咲いている。薄いピンク色の帯をきゅっと上に寄せて、教卓の前に戻った。 「あーあ、萌華とお揃いが良かったなぁ。」 唇を尖らせてそう呟く岡村は、濃い藍色の上に赤い金魚を張り巡らせた浴衣を着て、寂しそうな表情を浮かべている。露木は彼女の隣に立って満席となった教室を見渡しながら言った。 「しょうがないよ。同じやつ注文できないんだから。」 「なんでそこケチケチしてるのかな、うちは。」 2人の後ろにある黒板には今朝書いたばかりのメニューがびっしりと並んでいる。抹茶ラテは210円、黒糖ドーナツは300円だった。 「露木、岡村。追加注文とかない?」 教卓の窓際には机が積み重なっており、緑色の布がかけられている。その裏で男子生徒たちが用意したグラスを磨いていた。端に置かれた大きな冷蔵庫は低い唸り声を上げている。岡村は何気なく答えた。 「うん、来てないよ。」 学園祭といえど厨房とホールの連携は大切だった。きちんとした伝達をしなければ、店は回らない。会計を済ませて帰った客の空いたグラスなどを片付けながら、次々と入ってくる客を捌いていく。その繰り返しの作業を行っていると時間はあっという間だった。 「いらっしゃいませ。」 教室の前に置かれた受付から男子生徒の声が起こる。露木と岡村は急いで笑みを浮かべてから、扉の方を見た。 「あ、2人で。」 2本指を立てる葛城の隣で、一条は片手を振っている。咄嗟に露木は顔を伏せた。しかし岡村は囃し立てるようにニヤニヤと笑っていた。 浴衣の表面をぎゅっと握って視線を合わせられず、畳の絵柄がプリントされた足元を見る。先に声をかけてきたのは葛城だった。 「いや、ごめんね。萌華ちゃんが浴衣着て接客してるって教えたらどうしても見に行きたいっていうから。」 「おいお前余計なこと言うなよ。」 「じゃあ、2名様こちらにどうぞ。」 岡村が先導して彼らは窓際の空いた席に移動していく。彼女はそそくさと戻ってくると、露木の方を一度だけ叩いた。 「じゃあ、萌華。後は頑張って。」 そう言いながら彼女は即席の厨房へ回った。男子生徒たちはいつ注文を受けてもいいようにグラスを磨いている。露木は布の裏で小さく呟いた。 「ちょっと。恵里も手伝ってよ。」 「やだ。」 「なんでよ。」 「いいじゃん。カップルなんだから。」 「き、緊張するんだけど。」 「接客は緊張するよね。」 「そうじゃなくて」 「さぁ、頑張ろう。」 ぽんと露木の背中を押す。そのままの勢いで彼女は2人が座る席の前に出た。 浴衣の裏で心臓がおかしいくらいに跳ねている。この姿は変に写っていないだろうか、可愛らしく見えているだろうか。期待にも似た微かな不安が昇る。それはよく照れる一条なら尚更のことだった。浴衣姿を見たところで何も言ってくれないかもしれない、露木はそう思い込んでいた。 机の上に両腕を乗せ、彼女を見上げる一条はまじまじと表面の桜を眺めると、何か大切なことを思い出したような表情を浮かべて言った。 「お前、すっげー可愛いな。」 心臓を爪で弾かれたように、露木は驚きのあまり後退る。その様子を見て葛城は片肘をつき、何か企むような笑みを見せる。 「お、早速イチャイチャか。見せつけてくれるね。」 「そりゃ、俺の自慢の彼女だからな。」 「ああそう…いやぁ、まさか景の惚気顔を拝めるとはな。」 「仕方ねぇよ。だって俺こいつのこと大好きなんだか…いって!」 頭を叩かれて一条は大袈裟に突っ伏した。立ち尽くしていたままにも関わらず息が荒れていた露木は、急いでメニューを書き留めるメモを開いてペンを手に取る。 「ご、ご注文は。」 「お前な…いきなり脳天はねぇだろ…。」 「せ、先輩は、ま、抹茶ラテで、いいですよね。」 「勝手に決めるなよ。ちょっと悩んでもいいだろ。」 「あ、お冷でいいですか。」 「ここに来て水かよ。いくらとるんだよ。」 「先輩は…600円です。」 「たけーよ。てか先輩は、って何だよ。」 「お冷は基本無料なので。」 「じゃあ無料でいいだろ。ぼったくりかよ。」 その言い合いをぼんやりと眺め、葛城はため息をつくように笑った。 「なんか、夫婦漫才みたいだな。」 「ちょ、ちょっと、葛城先輩…」 「俺と景はアイスコーヒーで。あとは黒糖ドーナツを2つ。」 急いだ様子で注文を書き取り、逃げるように布裏の厨房へ向かう。メモをちぎって男子生徒たちの前に叩きつけた。 「お、おい、なんか怒ってるのか。」 「怒ってない!」 八つ当たりをするようにそう言って、唇を尖らせながら大きなため息をつく。教室の全体を見渡していた露木だったが、アイスコーヒーと黒糖ドーナツの準備ができるまで、自らの頬が自然と緩んでいることに気が付かなかった。
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