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学園祭の出し物は校内だけに留まらず、校庭にも展開されていた。図書委員会は貸し出されなくなった本を売りに出しており、2年生や3年生の幾つかのクラスはアクティビティをテーマにした企画を出している。そのどれもがバラエティに富んでおり、大勢の人々が溢れていた。
福祉委員会での誘導係を終えた露木は人混みの中をうろついていた。父母や他校の生徒たちの間をすり抜けながら、飲食店などを見渡す。りんご飴にわたあめなど、夏の神社で見るような出店が軒を連ねている。
その中で露木はある出店を見つけた。
学校指定の白いテントの下、大きな字で3年A組と書かれた垂れ幕が下がっている。テントの下で一条のクラスメイト達がエプロンを着て、様々な種類の揚げパンを販売している。その中に一条の姿はなかったものの、その光景を見てどこか感慨深く思った。
彼とは既に交際関係にあるものの、一条景が普段どのような生活を送っているのかは分からなかった。
いつもは1年生のフロアにやってくる彼も、3年A組に戻れば同い年の生徒たちとはしゃいでいるのだろうか。交際を始めたら見えなくなってしまうという関係性もあるのだろうか。露木だけに見せる表情と、クラスメイトたちだけに見せる表情、恋愛はその人の全てを知ることができるというわけではないのだろうと、彼女は感じた。
妙に気まずさを覚えてその場から離れようと、店に背を向けた時だった。
「あれ?見たことある顔だ。」
どこかで聞いたことのあるその声に、露木は反射的に視線を落とす。しかしその声の主は数人の女子生徒たちを連れて近付いてきた。
「やっぱり、梅雨ちゃんだー。」
「本当だ。よく見つけたね。」
「まぁ高校行っても変わらないか。相変わらず、じめじめしてるねぇ。」
くすんだ金髪を振って、露木の前に立つ。彼女たちとは7ヶ月ぶりに再会したものの、それでも緊張は拭えずにいた。露木の脳内で中学時代の何気ない日常がフラッシュバックする。
中学を卒業して髪を染め、様々な男たちと寝ていたという自慢話を繰り返し、また制服を着崩してはあの頃のあだ名で呼ぶ彼女たちに、震えた声を何とか抑えながら、前に立つ3人に言う。
「ど、どうしてここに…?」
「どうしてって、六石ってイケメン多いって話聞くしさ。LINE交換できたらいいなぁって。別に梅雨ちゃんのことはどうでもいいよ。と、思ったけどさ。」
汚れたローファーを前に進め、ぐんと詰め寄る。きつい香水の匂いが鼻先を掠めた。
「あんた、誰かイケメンの知り合いっていたりしない?」
「ちょっと、美緒。梅雨ちゃんが知ってるわけないでしょ。」
「そうだよ。じめじめ梅雨ちゃんなんだから。」
発言順に名前を頭の中に並べていく。詰め寄ってきた金髪の筒井美緒、毛先を赤くした巻き髪の宇於崎舞、中学校の頃から美人だった渡辺純夏。露木にそのあだ名を与えたのは彼女たちであった。それを思い出し、思わず体が震えてしまった。
「ねぇ、知ってんでしょ。イケメンの一人や二人。」
その高圧的な態度も、教師の前でころころと変える声も、露木は全てを覚えていた。途端に制服の下で鳥肌が立っていた。
「い、いや、知らない…」
「え?相変わらず声小さいね。小雨?」
「そ、その…」
大勢の人々が行き交う中で、彼女たちを前にするとどんな声も掻き消されてしまうように感じてしまう。それが露木にとって恐怖以外の何物でもなかった。
「大体あんたが六石とか、似合ってないよ。」
「そうそう。地味な梅雨ちゃんなら梅雨ちゃんらしく、隅っこにいなよ。」
「湿気みたいな匂いがぷんぷんだよ。」
ようやく逃れたと思っていたからこそ、希望が絶望に変わったように落胆してしまった。ただ物静かであるという理由で排斥しようとする彼女たちは、7ヶ月経っても変わっていない。それが残念であると共に、どこか悲しかった。
彼女とは一条と出会ったことで変われた自分と3人を比較していた。まだ本音を見せ合って誰かと向き合っていないのだろう、そう結論づけた露木はようやく言い返そうと、喉を絞ろうとした。
「あれ、可愛い子たちがたくさんだ。どこから来たの?」
露木たちの右手から男子生徒の声が飛ぶ。人混みの中から白に近い金髪が揺れて、やがて白河勇輝はくしゃっとした笑顔を覗かせた。
「え、白河くん…。」
思わず露木がそう呟くと、まるで動物の反射行動かのように前の3人はあっという間に声色を変えた。まるで撫でてもらいたい猫のように彼に擦り寄る。
「はじめまして。私たち、露木さんと同じ中学だったの。白河くん?かっこいいー!」
「本当!めっちゃイケメン!」
「ねぇ、こんなところ抜け出してカラオケ行かない?」
甘い蜜に集る虫のように見えて、露木はより嫌悪感を抱いてその場から離れようとした。
その時だった。
「あ、ちょっと待って。」
白河は笑顔を浮かべたまま申し訳なさそうな声で言う。すると彼は何を思ったのか、興味津々の子犬のように鼻先をひくつかせた。くんくんと彼女たちの周囲の匂いを探っている。
「ちょ、ちょっとー!私たちの匂い嗅いでるー!」
「やだー!ワンちゃんみたーい!」
やがてそれを止めると、顔を戻して白河は爽やかな笑みで呟いた。
「うん、やっぱり。いくら香水振っても殺菌作用のあるうがい薬の香りは消えないよね。」
「ど、どういうこと?」
「いいや?なんか、君たち風俗嬢みたいだなって。」
前の3人から笑顔が消えていった。雨が徐々に乾くような、グラデーションに近い表情は無に変わっていく。しかし白河は相変わらず笑顔を保っていた。
「デリヘルでバイトでもしてるの?それとも普通に体売ってるとか?別に僕は君たち3人をまとめて抱いても構わないけどさ、その匂いを彼女に向けるのはやめてもらえないかな。萌華ちゃんは君たちと違って純粋無垢なんだから。」
言葉だけが研いだ日本刀のように鋭い。誰かの唾を飲む音が聞こえた。
「な、何が言いたいの?」
少しだけ語気を強め、筒井は金髪を振った。すると白河から笑顔がぱったりと消えた。一切揺らぐことのない大きな湖の表面。どんな小石を投げても動かない水面のような表情で、ぐっと声を低くした彼は吐き捨てた。
「くせーんだよ、ヤリマン。消えろ。」
聞いたことのない彼の声に、露木は驚いてしまった。邪魔なものは一切寄せ付けないような冷たい態度に、前に立つ彼女たちも臆した様子で、そそくさと人混みの中に消えていく。
やがて彼は呆れたようにため息をつくと、露木を見て言った。
「別にいいでしょ?あんなこと言っても。」
「ま、まぁ…。」
胸の中にあった痞えが取れたようだった。どこかすっきりして露木もため息をつく。
白河はベージュのセーターのポケットに手を入れて、少しだけ寂しそうな表情で辺りを見渡しながら呟いた。
「それで、一条先輩とはどうなの。付き合えた?」
新宿での一件以降、一度も会っていなかった彼への恐怖心はまだ拭えなかった。
露木が辿々しく頷くと、彼は鼻から息を抜いて笑った。
「そっか。なら良かった。」
そう呟く彼の表情もどこかすっきりとしている。それが何故なのかは分からなかった。
「萌華やっと見つけた…え、嘘。萌華ちゃん離れて!」
人混みをかき分けて走ってきた岡村が2人の間に割って入る。白河をキッと睨みつけて、彼女は鋭い声で彼に言った。
「何、今更。萌華に何の用?」
「恵里、私は別に大丈夫だよ…」
「いいや、ダメだよ。だってこいつのせいで萌華はすごく辛い思いしたんだよ?」
大袈裟に手で制する彼女に対して、白河は何も言わなかった。ただ黙り込んだまま足元を見ている。その態度が露木にとって不思議だった。
雑居ビルの廊下で声を荒げていた彼を思い出して彼女はよりそう感じていた。あの時の白河は欲望という黒い絵の具を全身に塗りたくったような雰囲気だったが、今の彼はそれらを勢いの強いシャワーで洗い流したような、真っ新な状態だった。
しばらく岡村に睨まれていた白河は、その場で深々と頭を下げた。辺りを川のように流れる人々は3人のことなど気にせずに校内を回っている。彼はその喧騒にも負けないくらいの声で言った。
「いくら謝ったところで意味はないと思う。だけど、こうでもしないと僕の気が収まらない。本当にごめん。申し訳なかった。」
数秒間頭を下げ続ける彼を見て、2人は目を見合わせた。驚きのあまり岡村は唖然としていた。
「どんな言葉をかけたって萌華ちゃんが傷ついた事実は変わらないし、消えることはない。だから責任を取ることにした。」
スラックスのポケットに手を入れて、白い封筒を取り出す。その表面には小さな文字で『退学届』と書かれてあった。
白河は疲れたように笑って辺りを見渡すと、まるで自らを嘲笑うかのように続けた。
「これが僕なりのけじめだと思ってる。萌華ちゃんの一言でようやく気が付いたんだ。僕は今まで上っ面だけの関係が心地いいと思ってたし、誰かのことをきちんと考えるなんて面倒臭かった。でもそれだと人を傷つけてしまう。そんな当たり前のことを君たちから学ぶことができた。だから、ありがとう。」
そう言い残し、小さくため息をついて人混みに混ざっていこうとする。露木はそのまま彼が消えて無くなってしまうような恐怖を感じた。
仮に退学したところで会える機会はあるかもしれない。それでも彼がこの学校を去るという選択が、まるでこの世界から白河勇輝と言う存在を抹消してしまうような、呆気なく弾けてしまうシャボン玉のように思えて、露木は咄嗟に手を伸ばして彼の腕を掴んだ。柔らかなセーターの袖を握りしめ、彼女はぐっと手前に引き寄せる。
そのまま白河が手にしていた白い封筒を無理やり奪い取ると、露木は躊躇うことなくその場で2つに破った。
微かな厚みを何度も裂いて、退学届は原型を失くした。大粒の雪の結晶のようになった紙切れを彼の掌に乗せて、半ば強引に押し込んでから露木はたった一言、彼に告げた。
「逃げないでよ。」
それ以外の言葉は不必要だと感じた彼女はすぐにその場から立ち去った。人混みの中に彼を置いて、露木はそそくさと校舎に戻っていく。背後から岡村の呼び止める声が聞こえていたものの、露木は振り返らなかった。
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