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計2日間行われた六石祭は終了し、出店のテントや校門に建てられた柱などは片付けられていた。どの教室も机と椅子がずれることなく並んでおり、まるでこの2日間は泡沫の夢のようだった。
18時を過ぎて校内は薄暗く、微かな月明かりが教室に差す。しかし窓から見下ろす校庭の中央には祭壇のような木のセットが組まれ、めらめらと火が上がっていた。キャンプファイヤーはぼうっと校舎を照らし、フォークダンス用の音楽が絶え間なく流れている。後夜祭は2時間程度で終了するものの、生徒だけでなく教員たちも盛り上がっていた。普段は厳しい態度をとる生活指導の先生も、皆が節度を持って楽しんでいる。
露木はその様子を1年C組の教室からぼんやりと眺めていた。福祉委員会の片付けが終わり、荷物をまとめて窓の向こうを観察する。後夜祭への参加は自由であるため、何人かのクラスメイトは既に帰宅していた。
「おい、ここにいたのかよ。」
教室の後ろから声がかかる。一条は緩めたネクタイの先を振りながらやってきた。ワックスでセットしているのか、明るい茶髪を後ろに流してオールバックにしている。
「お疲れ様です。」
「おう。」
露木の隣に立ち、机の端に腰を下ろす。きつい香水ではなく、ふわりとした柔軟剤の匂いが鼻先を掠めた。
「行かねーの?あそこ。」
「先輩こそ、ああいう火のある場所とか好きじゃないんですか?」
「どういうイメージだよ。まぁさっき行ってきたけど、男同士でダンスするのもちょっとなぁ。」
「葛城先輩とダンスすればいいじゃないですか。」
「嫌だわ。それにさ、ルイス先生が異常に盛り上がってんだよ。もうあのペースに皆乗せられててさ。大変だよ。」
そう言うもどこか一条は嬉しそうだった。
微かに聞こえる音楽と騒ぎ声、風に揺れる火の先を眺めながら露木は呟いた。
「先輩、昨日のライブかっこよかったです。」
「お、マジ?」
「はい。なんか、羨ましかったです。」
キャンプファイヤーの周りでルイスは誰よりもはっちゃけている様子だった。盆踊りのように掌をくるくると回して、酔っているような足取りで旋回している。
「えっと、まぁ…フィメールラッパーも多いし。最近じゃいい音源ばかりだからな。」
「いや違いますよ。ラッパーに憧れているわけじゃなくて、ああいうパワーを持ってるっていうのが羨ましくて。」
スカートの端をぎゅっと握る。露木はぽつりぽつりと呟いた。
「私、中学の時に梅雨ちゃんっていうあだ名でバカにされてたんです。いつも静かで隅にいるから、地味でじめじめしてるって。だけど物を隠すとか暴力を振るうとか、そういうのはなかったからはっきりといじめだとは言えなくて。でもずっと梅雨ちゃんって言われる度に小さなナイフで胸を刺されてるように辛くて。そうやって地味だって言われていたから、本当はずっと高校で素敵な出会いがあるといいなぁって思ってたんです。だから昨日の先輩のライブを見て、その時の自分がフッって消えていった感じがしたんですよね。」
窓に手をつく。露木はどこか軽くなったような感覚を覚えていた。彼と出会ったことで過去の自分まで清算できた、その喜びと胸の痞えが取れたような爽快感に、彼女は机の恥に腰掛けている一条に向かって頭を下げた。
「勇気をもらいました。ありがとうございます、一条先輩。」
「おいおい、そんなにか。まぁそうやって言ってくれるならやり続けてきてよかったわ。」
ゆっくりと頭を上げ、彼女は何気ない疑問をぶつけた。
「毎年やってるんですか?」
「まぁな。弘毅がDJやってるって聞いて、それから毎年。それに今年最後だから余計に気合い入っちゃったよ。」
「そっか…」
彼の言葉を聞いて露木はようやく実感した。キャンプファイヤーを眺めているその姿も、高圧的な態度を取っていた彼も、彼なりに着崩した制服も、もう見ることができなくなる。来年、一条景はこの学校にはいない。
今まで自然と目を背けていたその事実が突然輪郭を帯びて、露木の胸の中を寂しさが支配した。
「先輩。」
「あ?」
悲しそうに唇を尖らせて、彼女は一条の隣に立ち尽くす。キャンプファイヤーの火はより一層強くなっていた。明るい橙の光が2人を照らし、日常が映し出される教室に2つの影が出来ていた。
「私に思い出をください。」
騒ぎ声が乾いた雨のように染み込んでいく。一条は露木をぼんやりと見つめてから、吹き出して笑った。
「思い出ってなんだよ。この2日間がいい思い出だろ。C組の抹茶ラテとか美味かったじゃんか。」
軽くそう返して窓の向こうを見た彼だったが、やがて視線を露木に戻した。それは彼女があまりにも寂しそうな表情を浮かべていたからだった。
揺れる火に照らされ、よりその表情が浮かび上がる。その切なさを見て一条も同じように、どこか寂しそうな面持ちで机の端から降りた。露木の前に立ってぐっと距離を近付ける。
「しょうがねーな。」
鬱陶しそうに髪を掻くと、彼は左手を露木の腰に回した。やがて右手を後頭部にゆっくりと添えて、スローモーションのように顔を覆う。
後夜祭の喧騒と明かりに包まれながら、2人の唇は重なった。
やがて彼の舌先は彼女の歯を押して、果実を割るように舌を潜り込ませる。露木も答えようと舌を動かしたが、彼に口内を蹂躙されてしまい、一条の背中に腕を回すことしかできなかった。
騒ぎ声も音楽も聞こえない。露木の頭の中で鳴り響いていたのは唾液が混ざり合う水の音だけだった。
時間にしてしまえばたった数秒の深いキスだったが、未経験の露木にとっては数日間も粘液のプールを泳いでいるような感覚で、ゆっくりと唇が離れていくと彼女は深い脱力感に陥った。
一条はどちらのものか分からない唾液を舌先で掬うと、彼女の頭を軽く撫でてから言った。
「思い出になった?」
高級な紙鑢で研いだような低い声に、露木はぼうっとする感覚を味わいながら頷いた。
やがて彼は優しく微笑むと、毛布をかけるように彼女を抱きしめた。肩に顎を乗せて露木は自然と緩んでいく頬を直すことなく、再び聞こえ始めた喧騒を聞きながら身を任せた。
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