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12月24日の人混みは露木の予想を遥かに超えていた。いつもは学生やサラリーマンが点々としている森下駅前も、厚手のコートに身を包んだ男女で溢れ返っている。あちこちから暴風雨のようにクリスマスを彩ってくれる冬の歌が流れていた。気が滅入ってしまいそうなほどの騒めきは、待ち合わせ場所の自由が丘駅にも轟いている。 露木はくすんだ橙のロングスカートに、白いニットシャツ。深い藍色のコートは首にまとわりつくほどのファーを蓄えていた。暗い携帯の画面に自分の顔を写し、後ろで縛った髪の束を肩にかける。様々なカップルが行き交う中で、彼女はリュックサックを背負い直してから落ち着きなく辺りを見渡していた。 今までなら休日であるために閉じ籠り、一度も家から出ることはなかっただろう。わざわざ冷える場所に行って何が楽しいのか、露木は夕方のニュース番組などで取り上げられるイルミネーション特集を見てよりそう考えていた。 しかし今年は何もかもが違っていた。 「お、早いな。」 背後の改札口から声がかかる。振り返った先に、グレーのパーカーにデニムのボアジャケットを羽織った一条がいた。黒いジーンズは彼の細い足にぴったりと張り付いている。光を一切寄せ付けないような黒のボストンバッグを肩にかけて、明るい茶髪をワックスで搔き上げていた。 全ては彼のためだった。 「もう、遅いですよ。」 「いやいや、約束の15分前じゃん。ベストタイミングではあるだろ。」 そう呟きながら彼との距離が縮まる度、露木は緩む頬を抑えられなかった。大好きな人と過ごすクリスマスがこれほどまでに期待感溢れるものだとは知らなかった彼女は、微笑みを隠すことなく彼を出迎える。一条はその笑顔を見て怪訝そうな表情を浮かべた。 「何だよ、ニヤニヤして。」 そう言われてようやく微笑みを押し殺し、小さく息を吐く。しかし誤魔化した自分とは裏腹に、彼女は彼に手を差し出した。 「行きましょ。」 「おお。もうお昼だもんな、腹減った。」 いつものように会話を交わしながら、北口を出て大井町線沿いの通りを進んでいく。小洒落た街という印象が強いものの、一歩路地に入ればその地に根付いた商店街の雰囲気が漂う。 すずかけ通りと自由通りがクロスする道の先に建つ店に2人は吸い込まれていった。 小さな造りの店内には海外のベーカリーショップを思わせる雰囲気が漂っており、店員に案内されて一条を先頭に2人は屋上へ上がる。 屋上のテラス席は緑に囲まれ、天井は抜けるような青空を映し出している。奥の席に通された2人は向かい合って座り、手元にあったメニュー表に目を通した。露木は自然に囲まれたテラス席の端で、他の客に聞こえないよう声を潜めた。 「こんなおしゃれなお店でいいんですか、高くないですか。」 「ああ、大丈夫。費用はとっくに見積もってあるから。確かに高いけどめちゃくちゃ美味いらしいぜ。」 彼女の心配を余所に、一条は注文する品を見定めていく。10分近く経って注文を決めた2人は、店員に料理名を告げてから辺りを見渡した。 女性同士の客もいれば、2人のようにカップルで来店している客も見受けられる。そんな状況だからか、余計に露木は不思議に思っていた。1人であれば小洒落た店にも行かないであろう彼女は、カップルでないと来ることがないであろう場所を目に焼き付けようと、脱いだコートのポケットから携帯を抜いてカメラを立ち上げる。テラス席の雰囲気を撮影してから、今度は前に座る一条にカメラを向けた。 「ん?何撮ってんだよ。」 「彼氏を撮ってます。」 「だろうな。」 そう呟いて彼は呆れたようにふっと笑う。その瞬間を逃すことなくシャッターを切り、撮影したばかりの写真を見た。 テーブルに両肘をついて微笑む彼を眺めて、たまらずにLINEを立ち上げる。岡村とのトークを選択して有無を言わせず写真を送信し、クリスマスデートと文章を付け加えた。 「盗撮してニヤニヤすんなよ。」 「いいじゃないですか。」 「あっ。」 携帯の画面から顔を上げると、前に座る一条は彼女へ向けていた携帯のレンズをさっと下げた。 「ちょっと、何撮ってるんですか。」 「彼女を撮ってます。」 「もう、真似しないでください。今絶対変な顔してましたよ私。」 「それな。めちゃくちゃ半目だし。」 彼の持つ携帯の画面が翻る。そこに写っていたのは画面を見つめながら頬を緩ませて、中途半端に目を開けた露木だった。 「ちょ、ちょっと!めっちゃブサイク、消してください!」 咄嗟に彼の携帯を取り上げようと身を乗り出したが、一条はすぐさま携帯を引っ込めてしまった。やがてニヤリと笑って彼は言う。 「やーだ。こういう何気ない瞬間が良いんだよ。」 「私はよくないです!」 「まぁまぁ。ほら、料理来たぜ。」 女性店員が大きな盆に乗せたハンバーガーを運んでくる。無添加が特徴だというパテからは、中の具材を全て包み込むほどのチーズが垂れており、一条が注文したハンバーガーからはとろけるチーズと共にこんがりと焼かれたベーコンが顔を覗かせていた。 「わ、すごい…美味しそう!」 運んできた店員に礼を言ってから、2人は携帯を取り出して写真を撮り合った。食事に手をつけたのは料理が運ばれてから2分後のことだった。 ナイフとフォークで器用に切り分け、パテとバンズにチーズを絡ませて口いっぱいに頬張ると、濃厚なチーズの風味に主張しすぎない酸味のあるソースがふんわりと鼻から抜けていった。複雑に思えたものの、味わいはシンプルであった。 「うっわ、何だこれ。めちゃくちゃうまいな。」 一条は大きなバンズを勢いよく掴み、少し潰してから外壁を齧っていた。少しやんちゃな食べ方を見て露木は思わず笑ってしまった。 切り分けたバンズをフォークで刺そうとした時、テーブルの端に置かれた携帯が一度だけ振動した。何気なく手に取って明るくなった画面を見る。岡村からのLINEは簡潔的だった。 『幸せのお裾分けごちそーさまです』 その文章の下で白い熊がハートを撒き散らしながら踊っている。何故かその返事が誇らしく思えて、露木は彼にばれないようにこっそりと微笑んだ。
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