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昼食を済ませた2人は自由通りを抜けて東急東横線の上を渡り、駅前近くの通りに入る。先程とは違って観光客は少なく、一本道の左右に住宅街が並んでいて、駅前の喧騒が突然遠くに感じてしまうほどである。
クリスマスデートのプランを考えたのは一条であった。だからこそ露木は彼の後ろを歩きながら、訪れたことのない自由が丘の住宅街を眺めていた。一体この先に何があるのかも分からず、露木はただぼんやりと歩いていた。
「えっと、ここだ。」
少し緩やかな上り坂の手前で立ち止まり、彼は言う。指差した先には濃い色のレンガで出来た壁に、道路へはみだそうとした緑が鬱蒼と生い茂っている。その中央が窪んでおり、一見廃墟のような雰囲気に露木は臆してしまう。
「何ですかここ…」
「ラ・ヴィータって言ったかな。割と自由が丘じゃ定番スポットなんだぜ?」
そう言いながらそそくさと歩いていく。低い階段を上っていく彼に続いていくと、目の前にはヴェネツィアを思わせる景色が広がっていた。
洋風なレンガ壁の建物は色とりどりで、中央には緑に濁った川が流れている。背が低く横に長い、ピータンを半分に割ったような小舟が浮かび、その上を赤茶色のレンガで出来た橋が跨いでおり、東京の住宅街の中に切り取られたイタリアの日常が落ちてきたようだった。
「え、すごい綺麗…!」
咄嗟に駆け出し、携帯を取り出して辺りを画角に収める。カメラを仕舞って見渡していると、一条は彼女の頭をぽんぽんと撫でながら言った。
「インテリア雑貨とかヘアサロンとか、カフェもあるんだよ。一瞬ビビっただろ。」
「はい、怪しいお店に連れて行かれるのかと思いました。」
「どういうイメージ持たれてんだよ…まぁでも、所謂こういうデートスポットに萌華と来たくてさ。」
どこか照れ臭そうにはにかんだ彼の後を追い、細い川の上にかかる橋に向かう。先程まで住宅街の真ん中にいたとは思えないほど辺りの建物は洋風で、突然異国の地に迷い込んだような空気が漂っている。橋の真ん中で奥に聳える住宅街を眺めながら、露木は何気なく言った。
「先輩って、女の子とこういう所来たことないんですか?」
10℃前後を行き交う青空の下、小さな橋の上で2人は並ぶ。彼女の隣で一条は一切揺れることのない濁った川を見下ろしながら答えた。
「いや、信じないとは思うけど…来たことないんだよな。だから割と今日オーソドックスなコースにはなるけど。」
様々な女子生徒と肉体関係を結んでいる時点で、嘘をつく必要性はないだろう。だからこそ露木は不思議に思っていた。その様子を察したのか、彼は露木を一度だけ見て、自らを嘲笑うように言う。
「まぁ簡単な話、セックスだけなんだよな。ただ体を重ねるだけでそれ以外にやることはない。もちろん俺から性教育だって言ってるんだからそれ以外を望むのはおかしな話だけど。それでも意外と嬉しかったりするんだ。セックスに関する悩みを解決した子が、そのあとに彼氏ができていい性生活ができているって報告があったりして。だからその頃からかな、自分よりも他の人が幸せになって欲しいって思うようになったのは。」
寂しそうな表情で彼は川の水面に向かって言葉を落としていく。波が立つことはなかったものの、彼女の胸の中には波紋が起こっていた。自分より誰かの幸せを願う。それを10代後半で決めてしまうというのは、長い道のりの途中で歩くことをやめてしまったような感覚だった。
ゆっくりと体を起こし、一条は携帯を抜いてレンズを彼女に向ける。小さなシャッター音の後に画面を確認して彼は安心したように笑う。
「でも人間ってワガママだから、どこかで自分の幸せを求めてるんだよな。例に漏れず俺もそうだった。皆が彼氏を作って幸せになっていく中で、俺自身も幸せになりたいっていう気持ちもあった。だけど、俺がそれを望んじゃいけないんだって思ってた。ただ性教育をするだけの存在になったのかって、自分から始めておいて少し寂しくもなったりな。だけど、もう今は違うんだ。」
そう言って彼女を見て、一条は露木の頭を優しく撫でる。穏やかに、柔らかく微笑むその表情は今までに見たことのないものだった。
「今は隣に萌華がいれば、それでいい。ありがとうな。」
暖かな彼の掌が心地よく、思わず彼女は頬が緩んでしまう。しかしその間で露木は新たな思いが芽生えていた。
ただ自分が幸せになるだけでなく、彼にはもっと幸せになってもらいたい。
そのためには自分に何が出来るのか。露木はラ・ヴィータを出て自由が丘駅に向かう道中で考え込んでいた。
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