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59
自由が丘に戻った2人はイタリアンレストランでディナーを済ませ、駅前から伸びるメープル通りを歩いて、狭い一本道の先の交差点の手前に立つ観光ホテルに入った。ヨーロッパを思わせる絵画やソファーの置かれたロビーに入ってチェックインを済ませ、エレベーターで上がった3階の奥にある部屋が、2人の宿泊する部屋だった。
キャラメル色のソファーにガラスのテーブル、白とクリームを基調としたような内装は大人な雰囲気と共に落ち着きもあった。蔓が絡みついたようなスタンドライト、壁に収まった液晶テレビの前にはキングサイズのベッドが1つ。それを見て一条はボストンバッグをソファーの上に置いて、勢いよく飛び込んだ。
「あー、やばい。このまま沈む。」
「もう、先輩。ちゃんと服脱いでから飛び込んでくださいよ。」
「飛び込むのはいいのかよ。」
コートを脱いでハンガーにかけた露木は、リュックサックを片手にベッドに腰掛けた。彼の言う通り今にも沈んでいきそうなほど柔らかい雲のようなベッドの上で、一条はゆっくりと体を起こして立ち上がる。
ソファーに置いたボストンバッグを手に戻ってくると、おもむろにファスナーを開けて中を漁った。やがて取り出したのは真っ白な箱だった。
「はい、これ。メリクリ。」
借りていたものを返すように、何気ない仕草で彼女に手渡す。しかし露木は恐る恐るそれを受け取った。
白い箱の縁は金のラメが施されており、箱の真ん中には黒く小さな字が畝っていて、レースカーテンから忍び込む月明かりがその箱をぼんやりと照らしている。ゆっくりと蓋を開けると中には白いクッションに、細長いグロスが収まっていた。
金色の蓋に赤と銀が混じるラメが眩しく、世界的にも有名なブランドのロゴが刻まれている。それを見て咄嗟に彼女は口元を手で押さえた。
「え、これって、すごい有名じゃないですか。メテオーラって聞いたことありますよ。」
「やっぱりそこ有名なんだな。ファッションブランドだっけ、そこ。」
「そうですよ。え、嬉しい…。」
「まぁそれが一番似合うと思ってさ。」
沸々と彼女の中で喜びが湧き上がり、頬が緩んでいく。その喜びをすぐに返そうと露木はリュックサックを開けた。白い箱を丁寧に仕舞ってその奥から黒の箱を抜く。鼓動がばくばくと鳴って収まることなく掌に汗が滲む。
まるで作文を提出するように彼に差し出し、彼女は呟いた。
「わ、私からも。」
「おお、マジで!すげー!」
宝物を見つけたように彼はその場で足踏みをした。
「開けていい?」
待ち切れずにそう言った彼に頷く。一条は焦った様子で箱を開け、その中の物を見てぴたりと動きを止めた。慌てて露木は割り込むように言った。
「あの、それ私が選んだネックレスで、私先輩から貰ったじゃないですか。だからその、お返しというか、でも男の人にそういうの渡したことないからデザイン気に入らないかもしれないですけど、でも、先輩にはそれを付けててほしいなって…」
じゃらりと音を立てて箱からネックレスを取り出す。細い銀色のチェーンの下には、真珠を小さい丸の形に削ったような、キラリと光る玉が提がっている。いやらしく主張するわけでもなく、少し控えめな輝きが月明かりに照らされていた。
「なんか、良いな…。」
「えっ。大丈夫でした?」
「うん、なんか大人じゃね?こういう落ち着きのあるネックレスもアリだな。付けて良い?」
露木が一度だけ頷くと、彼は慌ててベッドから立ち上がった。電源をつけていないテレビの暗い画面を覗き込むようにしてネックレスを首にかける。グレーのパーカーの上に小さな真珠を出すと彼は何度か頷きながら、ようやくボアジャケットを脱いだ。
「おーおー、めちゃくちゃいい!正直俺派手なネックレスしか持ってなくてさ。陽介なんか俺の誕生日プレゼントに金のデカいチェーン渡してきたんだぜ?あれブリンブリンって言うんだけど、海外のラッパーじゃねぇんだからって突っ込んでさー。」
時折ベッドの方を振り返りながら、彼は子どものようにはしゃいでいる。それを見て露木はくすりと微笑んだ。
もしかしたら彼自身も今幸せを感じてくれているのではないか。
一条の後ろ姿を見て露木はより嬉しく思い、それと同時に安堵のため息をついた。
「いや、マジで良いわ。派手なデザインだと普段使いできないもんなー。」
ぶつぶつ呟きながら露木の隣に腰掛ける。一度だけ目が合うと、彼は突然大きく腕を広げて彼女を抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、なんですか。」
されるがままといったように彼女は驚いて両手を挙げていたが、彼はお構いなしにきつく抱きしめると、少しして水中から顔を上げるようにして露木を見た。
「俺さ、夢だったんだ。」
「夢?」
「そう。好きな女の子からこういうアクセサリーを貰うって。俺昔から貧乏だったし彼女もいなくて。だからさ、ずっと憧れてたんだ。俺のことを好きでいてくれる子が、俺のことを考えてプレゼントをくれるっていうの。すっげー嬉しいよ。」
ぐっと顔の距離が近付いていたため、少しだけ緊張していた彼女だったが、やがて諦めたように笑った。
それと同時に露木は考えていた。
幸せになりたい。その願望は人それぞれ違っていて、お金の量で決まるものではないのかもしれない。無ければ無いだけ寂しく、あればあるほど何かが満たされない。しかしそれを他者が介入することで叶うのであれば、露木はこれから先一条の幸せを叶え続けたいと思った。
露木を解放した一条は恐る恐るネックレスを外し、黒い箱の中にゆっくりと仕舞った。蓋を閉めて大事そうにボストンバッグへ沈める。やがて彼は立ち上がってソファーまで移動すると、壁に収まったクローゼットを開いた。
中からベージュの作務衣を取り出し、露木の方に振り返った。
「俺先風呂入ってくるよ。ちゃちゃっと済ませてくるから。」
ガラステーブルに作務衣を置いてボストンバッグの中を漁る。替えの下着を弄る彼の後ろ姿を見て、露木は衝動に身を任せることにした。
橙のロングスカートの表面をぎゅっと握って自分自身を鼓舞し、恐る恐る彼の背後に近付く。やがてオレンジの布を握っていた手を離して、一条の着ているパーカーの裾を掴んだ。
「あ?どうした?」
何気なく彼は言う。その間も露木の心臓は強く跳ねていた。
ぐっと引き寄せると、彼はボストンバッグから手を抜いて背後に立つ彼女に振り向いた。
「何だよ。あ、風呂先入る?」
「いや、あの、そういうことじゃなくて…」
露木はごくりと唾を飲んだ。やがて少し掠れた声で、前の彼を見上げながら、彼女は言葉を振り絞った。
「し、しないんですか?」
「は?何を?」
「その…え、エッチな、こと…」
2人の間に重い沈黙が生まれる。どちらかの鼓動がばくばくと鳴り響き、静かな部屋の中に染み込んでいく。既に露木は緊張のせいか呼吸を乱していた。
しばらくして一条は何かを思い出したような表情で言った。
「ああ…でも、コンドーム無いしさ。それにここ1回チェックインしたら外出れねぇじゃん。だから買いに行けないしさ。その、萌華が僅かでも望んでくれてるならそれは嬉しいけど、無理はしなくていいんだからな。」
宥めるように優しく言うものの、露木は一度出した勇気を簡単に引っ込めることはできなかった。口を滑らせたように慌てて彼に言う。
「で、でも、私…今日大丈夫な日だから、その、別に…コンドームは無くても…」
そう言いかけたところで一条は突然露木の肩を掴んだ。数秒前まで悩んでいるような面持ちだったものの、真剣な表情に切り替えて彼は答える。
「いいか。安全日とか無いぞ。あくまでも妊娠する可能性が低くなるだけで、もし妊娠の確率が1%に下がったとしてもその1%に当たったら子どもは出来るんだ。だから大丈夫な日だっていう気持ちでセックスするのはダメだ。」
口調さえ柔らかいものの、彼の言葉の圧力は計り知れないほど重い。やがて言葉をより強く染み込ませるように肩を一度だけ叩くと、彼はにっこりと微笑んだ。
「まぁ、俺には何の説得力も無いだろうけどさ。それでも萌華の事が大切だから。」
自分のことを思ってくれているからこその言葉だと、露木は分かっていた。欲望を押し殺してでも彼は彼女の体を気遣ってくれている。その優しさが露木は好きだった。
しかし彼女は声を大きくして言った。
「そんなの、ずるいです。」
「何だよずるいって。」
「後夜祭の日から、あの時のキスが頭から離れないんです。あれから思い出す度にむずむずして、その、1人でしてるんです。先輩がどう思ってるかは分からないですけど、それでも私は先輩とエッチなことしたいんです。女の子がそれを望んじゃダメなんですか。」
沸々と溜まっていた思いを一度に吐き出す行為は、ひどく苦しいものだと彼女は感じていた。様々な感情が狭い喉を強引に潜り抜けて一斉に飛び出していく。
胸の中が空っぽになった露木は、再び喉を強引に広げて言葉を投擲した。
「最初はそういう行為って気持ち悪くて、気が引けてましたけど、でも、先輩とならしたいって思うようになったんです。それっていけないことなんですか。好きな人とそういうことをしたいって思うのはダメなんですか?」
たまらずに彼女は一条に近付いて、ソファーの前に立つ彼の手を持った。意外にも薄く、骨張った掌。それを両手で掴んだ露木は唇を尖らせた。
「責任取ってくださいよ…。」
全身が心臓になったように鼓動が爪先にも響いていく。血管が切れてしまいそうなほど、呼吸は荒く、手には汗が滲む。自らの欲望を丸ごと曝け出すという行動は、数万人の前で個人情報を読み上げるようなものだった。
しばらくして一条は小さくため息をつき、露木の両手を優しく覆った。
「ごめんな、萌華。正直俺も無責任だとは思う。それに気持ちはめちゃくちゃ嬉しいし、俺も萌華としたいよ。だけど避妊具が無いとダメなんだ。いくら中に出さなかったとしてもカウパー腺液で妊娠は可能なんだ。だから無責任に体を重ねるのはダメだ。これだけは分かってほしい、萌華の事が大切だから簡単にしたくないんだよ。」
暖かな手が全身を癒してくれるようで、微温湯に浸かったように彼女は安心していた。あくまでも自分のために、気遣ってくれているからこそ、そう話す彼の言葉に嘘は見えなかった。
しかし露木の胸の中で灯った火は消えずに残っている。めらめらと揺らぐ欲望の炎は、そう簡単に掻き消えなかった。そのせいか彼女は意を決して一条の掌を強く握った。先程よりも小さな声で呟く。
「じゃあ、あの、触りたいです…。」
「えっ?誰に…?」
「いや、先輩の…その…あそこを…?」
言葉が一滴ずつ漏れる。欲望に駆られて放った単語が一条の着ているパーカーにぶつかって弾ける。後戻りの出来ない発言を受けて彼は視線を彷徨わせたものの、やがて一度だけ頷いてから言った。
「わ、分かった。じゃあ俺も萌華に触っていいか。」
「はい…あの、お、お待ちしてます…。」
「何だその言い方…。」
ぎこちない会話が続いていく。2人の視線は歪に絡み合っては時折離れ、それ以上の言葉は無いまま黙り込んでしまう。1時間にも感じるその数秒の後、まるでパズルのピースが当てはまったように視線がぶつかる。
どちらからともなく2人は唇を重ねた。後夜祭以来、2ヶ月ぶりのキスはお互いの唾液と舌先を混ぜ合わせて、再び頭の中に粘液の音を鳴らしていた。
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