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石畳の傍には並木が聳え立つ。横に広がった横断歩道を渡って鉄が錆びたような鳥居を先にくぐった岡村は溢れ返る人混みの真ん中で携帯を取り出し、初詣の波を画角に収めた。
「萌華、これ迷子になっちゃうよ。手繋ぐ?」
「子どもじゃないんだから。」
大きな木造の門を抜けるとさらに石畳が続く。靖国神社は森下駅から新宿線で10分、九段下駅を降りて500mほど歩いた先にある明治天皇の意向によって建てられた招魂社に起源を発した巨大な神社である。200万を超える英霊を祀っているほか、桜の名所としても有名だった。
例年初詣ともなると約10万人以上の参拝客に溢れ、都内でも10本の指に入る賑わいである。
そして参拝客だけでなく出店の数も多かった。あちこちから様々な屋台飯の香りが立ち昇り、お祭りのような賑わいを見せている。お休み処と称してアルコール類を販売している即席の居酒屋のような屋台まであった。
大名行列ほどの人の群れに並び、数十分の待機列を超えて2人は参拝を済ませた。見様見真似でどこにいるのかも分からない神様へ1年の願いを伝える。露木は胸の中で一条との事について願っていた。
「何か買ってく?」
「うーん、私はいいかな。だってこの後は恵里の家でしょう?」
「そうだけどさ、どうせお雑煮とかだよ?」
「いいじゃん。私結構好きだよ。」
「えー。あれ味しないよ。ちょっとりんご飴だけ買わせて。後生です。」
「いいよ、買ってきなよ。」
すぐ右手にあるりんご飴の屋台に向かっていく彼女の後を追いながら、ロングコートのポケットから携帯を取り出す。暗い画面に写った自分の唇を見て、彼女は少しだけ微笑んだ。12月は降ることのなかった雪のようなラメが眩しい。一条からのクリスマスプレゼントで貰ったグロスを塗ると、彼女はその日1日を特別な思いで過ごすことができていた。
びゅうと冷たい風が吹く。屋台の香りが乗った風に煽られて鼻先に届く。風が吹いた石畳の奥に目をやると、人混みの中に見慣れた2人を見つけた。
「えっ、先輩。」
「おお。あけおめ。」
葛城は白いコートに身を包んで露木に手を振っている。その隣で一条はスマートフォンよりも大きなイカ焼きを手にして、もぐもぐと頬張っていた。彼女の存在に気付くと一条はイカ焼きを振って歩いてきた。
「何だよ、萌華1人?」
「違いますよ。恵里は今あそこでりんご飴買ってます。」
短い列に並ぶ、薄い桃色のコートを指差す。すると岡村はタイミングを図ったように露木の方を振り返った。りんご飴を手に驚いた表情を浮かべる彼女を見て、3人は思わず笑ってしまった。
「すごい偶然!先輩たちは今からですか?」
「いや、もうとっくに済ませてきたよ。昼飯探してたんだけど、せっかくだから屋台で何か食べようかーって。」
そう答える葛城の隣で一条は依然としてイカ焼きを頬張っている。ハムスターのように頬を膨らませた彼を見て、露木は噴き出すように笑って、咄嗟に取り出した携帯のカメラで彼を撮影した。
「もう、口裂けそうですよ。」
ごくりと一口を飲み込み、息を吹き返した一条は深いため息をついた。
「分かってないなお前。こういう屋台飯をたらふく食べるのが神社の醍醐味だろ。」
「そんなこと言ってたらバチ当たりますよ。」
「いいんだよ貢献してるんだから。食ってみ?」
中途半端に齧られたイカ焼きの先端を一口摘まんで飲み込む。香ばしくも濃厚な味わいが口いっぱいに広がって、彼女は微笑みながら言った。
「うん、確かに美味しいですね。」
「だろ?海鮮系うまいよな。」
「いいですよね、牛串とかも好きです。」
「あー分かってるな。ちょっと高いけど絶対買っちゃうやつな。」
「はい、イチャイチャはそこまで。」
2人の間に手を割り入れて葛城は言う。退屈そうにりんご飴を齧っていた岡村は細い目で露木を見てから、不満そうに唇を曲げる。
「もう。私と一緒に来たのにイチャイチャしないでよ。」
「そんなんじゃないって。」
抗議と反論を繰り返し、4人は風が吹いた石畳の方へと歩いていく。
昼過ぎということもあってか人混みはさらに増しており、移動するだけで一苦労である。抜けるような青空に浮かぶ小さな太陽は強い日差しを零しているものの、その温かさを全て攫うような風が強く吹いている。夜は氷点下を下回るのではないかと、まだ垢抜けていない女性アナウンサーが話していた。
「2人は何をお願いしたの?」
葛城は携帯を片手に呟く。りんご飴の表面を齧っていた岡村は紅色の硝子のような飴細工を一口飲み込んでから言った。
「私はあれです、今年こそ彼氏が欲しい。それだけです。」
「ふーん。まぁそういう願い事って誰かに話すと叶わないって話だけどね。」
「あっ、そうだ…ひどい!罠だ!」
意外にも天然なところのある岡村を見抜いたのか、葛城は茶化していた。抗議する彼女はりんご飴の先端を振って続ける。
「先輩たちは何をお願いしたんですか。これは等価交換ですよ。」
「何をお願いって言われても、俺たちこれから受験だしさ。お願い事は別だけど、お守り買ったんだ。」
すっかり罠にかけられたことを忘れて岡村は感心したように頷く。大学受験、1年後には始まりそうなその競争が、今の露木にとっては遠い将来のように思えた。
一条はイカ焼きを平らげると分厚いデニムジャケットのポケットから赤いお守りを抜いた。金色の字で合格祈願と書かれている。それを振って彼は何気ない口調で言った。
「志望してるところ受かったら一人暮らしするんだ。だからマジで頑張らないとさ。」
「え、本当ですか?」
「うん。だから頑張らないとさ。」
隣を歩く彼を見て、露木はぼんやりと一条の大学生活を頭の中に思い浮かべた。髪をより明るく染めるのだろうか、どんな私服で登校するのだろうか、そう考えた彼女は頼み込むように言う。
「先輩、大学行ってもタバコとか覚えないでくださいね。」
「安心しろ。もうずっと昔から俺は吸わないって決めてるからさ。」
何気なくそう答える彼の横顔を見た時に、露木は妙なものを見た。微笑んでいるにも関わらず一条の眼には灰色のシャッターが降りているように、何かを遮断しているような目の表面。まるでこれ以上の介入を許さないようなその目つきが不自然に思えて、咄嗟に話題を変えようとした。
いつの間にか境内から出て、葛城は携帯の画面を眺めながら言った。
「じゃあ俺と景こっちだから。」
「分かりました、私たちはこれからお雑煮食べるんで。また学校で!」
岡村と葛城はそう言い合って別れの挨拶を済ませる。境内を出て右手に進んで行く一条は、振り向きざまに露木を見て笑いながら手を振った。それが何故か特別な挨拶に思えて、彼女は先程抱いた疑問を掻き消すように、笑みを浮かべて手を振り返した。
どこかへ去っていく彼らに背を向けて2人は九段下駅へと歩き出す。すると岡村は一条が去ったのをいいことに、りんご飴をぺろぺろと舐めながら言った。
「いいね、新年早々イチャイチャできて。」
「ちょ、ちょっと。だからそういうのじゃないんだって。」
「はいはい。皆そう言うよね。犯人だって最初はやってないって言うし。」
唇を尖らせて、茶化す岡村を睨みつける。彼女はその視線を感じ取ったのか露木を見て少しだけ笑うと、遠い目を九段下駅の方へと向けてから続けた。
「でもあれだね、萌華もいつか一条先輩のご両親に会うんだもんね。逆も然りだけど。」
彼女の言葉を受けて露木は何気なく考えた。一体彼は父似なのか母似なのか、まだ見たことのない彼の両親を想像してしまう。そしてその次に思い浮かんだのは、露木の家族へ挨拶に来る一条の姿だった。
思わずそれを想像し、彼女は笑ってしまった。
「ん?どうしたの。」
「いや、一条先輩意外と緊張しそうだなって。」
「あー確かに、そんなイメージある。結構言葉詰まりそう。」
「そうそう。もしかしたらスーツとか着てくるかも。」
そう言葉を交わしながら2人は笑っていた。この先に何が待ち受けているのかも分からないまま、彼女は浮かれていた。
もう少し一条のことを考えていればよかったと後悔するのは、少し先であった。
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