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冬休みが明け、3学期に突入した六石学院高校はどことなく静けさに満ちていた。12月初旬では賑やかだった校内も少しばかり寂しく感じてしまう。それは休みが終わってしまった虚無感ではなく、3年生のほとんどが受験戦争に身を投じているからであった。
しんと静まり返った4階からは騒ぎ声など一切聞こえず、1年生も2年生もお互いに気を遣い合っている。3年生のクラスを担任する教員たちも皆忙しなく、疲れが表情に滲み出ていた。
そんな中でも委員会は行われていた。学園祭では生徒よりもはしゃいでいた京本も、福祉委員会の最中議題に耳を傾けず、空いた机に向かって採点を行っているようだった。
2年生のフロアから降りて、露木と岡村は足音だけが響く校内を歩いていた。その時彼女たちの間で盛り上がっていたのは昨年のクリスマスの出来事であった。
「え、じゃあまだエッチしてないの?」
驚いてはいるものの、周りに気を遣って岡村は声のトーンを低くする。露木はため息をついてから頷いた。
「そう。避妊具がなかったからさ。」
それでもお互いの秘部を触り合ったことは、岡村には言わなかった。あれはあくまでも2人だけの秘密の出来事であり、大人への階段を昇る道中のことである。
下駄箱で靴をゆっくりと履き替えながらショートカットを耳にかけ、彼女は不思議そうな面持ちで呟く。
「でも何でだろうね。あれだけそういうことに興味がある人だと思ってたのに。」
「まぁ、そりゃね…。」
「それにさ、2人っきりだよ?クリスマスイブにホテルで2人きりなのに。男の子の日だったのかな。」
「それが本当だったら凄いことだけどね。」
1年生用の玄関をくぐって外に出た露木は前に聳え立つ染井吉野を見上げた。2ヶ月後の春に向けて、今はその花弁を蓄えている。あの桜の花が咲くのと、露木と一条が体を重ねるのはどちらが早いのだろうか。
「私だったら期待しちゃうなぁ。可愛い下着だって選ぶし。」
「正直私も期待しちゃってた。お気に入りのやつ着てきたし、もしかしたらって。」
「僕は一条先輩が萌華ちゃんのことを誰よりも大切に思っている証拠だと思うよ。」
咄嗟に振り返った2人は、下駄箱から出てきた白河を見て目を見開いた。明るいベージュのセーターに白に近い金髪が眉の上で揺れる。先に身を乗り出して口を開いたのは岡村だった。
「何、何の用。」
「何の用って。休んでた期間の宿題を提出してきただけだよ。それで今帰ろうとしているところ。」
学生鞄を肩にかけて彼は爽やかに笑う。その表情に、露木はあの時感じた欲望の黒い影は見えなかった。
「白河くん、一条先輩が私のことを大切に思ってるって、どういうこと?」
何気なく彼女は問う。すると白河は呆れたように笑って言った。
「だって、そりゃそうでしょ。2人が言ってた通りじゃん。男がクリスマスのホテルで2人きりなのに手を出してこないなんて、本当にただ純粋に好きだっていう気持ちが強いんだと思うよ。その人とはしたいと思ってても、性欲より混じり気の無い好意が勝った。性の対象よりも大好きな人だって、そう思ってるんでしょ。だって宝物を無闇矢鱈と移動させる人なんていないじゃん。人は宝物を傷つけたくないからずっとそこに、すぐ傍に置いておくんだ。」
そう言って彼は2人の目を通り抜け、校門の方へ歩いていく。露木は慌てて彼の後を追った。夕暮れの日に照らされる金髪は自ら発光しているように見えた。
「でもさ、手を出してこないって、私に魅力がないからっていうことじゃないの。」
「そんな極端な話じゃないでしょ。どれだけ美味しい食べ物がそこにあっても、すぐには食べない。お腹いっぱいだったり他にやることがあったり。それにさ。」
振り返った白河はにっこりと微笑む。俗に言うアイドルスマイルが橙のベールに包まれていた。
「腹を空かせた狐がある日痩せたひよこと出会って、まるまる太らせてから食べてやろうと画策して自宅に招き入れる。どんどん飯を与えてぶくぶくとひよこを太らせるんだけど、いつの間にか情が移ってて、襲ってきた狼を追い払おうと身を挺して庇い、最期は死んでしまうっていう絵本。だから一条先輩は萌華ちゃんと最高のセックスがしたいっていう欲望のために、今は優しく接してるだけかもしれないよ。」
「ちょっと、そんな言い方ないでしょ!」
咄嗟に岡村が語気を荒くして口を挟む。部活動の声や音すらも聞こえない校庭を抜けて、白河は少し笑ってから、肩を落として露木を見た。
「でもさ、これって言い換えれば、その人とは一番良いムード、一番良いタイミングでセックスしたいってことでしょ。中途半端じゃなくて、適当にするわけでもなくて、その人のことを大切に思っているからこそ機会を伺う。付き合ってすぐ適当にエッチをするよりもそっちの方がいいでしょ。」
露木はホテルのソファーの前で聞いた一条の言葉を思い出していた。
『萌華の事が大切だから簡単にしたくないんだよ。』
柄にもなく真面目な面持ちで彼はそう言った。簡単にしたくないという彼の思い。思い返せば彼女も同じ気持ちであった。
「もう、最初からそう言えばいいのに。」
「だから言い換えたんじゃん。」
篠崎駅へ向かう住宅街を歩きながら言い合う2人の背中を見て、夕陽を全身を浴びながら露木は決心していた。
2ヶ月後に迫った卒業式の後、一条に処女を捧げよう。
それは簡単にしたくないという彼と同じ思いだからこその覚悟であった。
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