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染井吉野はタイミングを図ったように満開だった。 微かな桃色を帯びた白い花弁がのびのびと育っている。抜けるような青空に掲げられた太陽で光り輝いている代わりに、大勢の生徒たちが巣立ってしまう。その美しさは反比例していた。 暖かい春の陽気は体育館にも満ち溢れている。学園祭では軽音部が爆音を奏で、歓声が沸き起こっていたその中も、今は静けさでいっぱいだった。 慣れないパイプ椅子に座って1時間が経つ。卒業証書の授与は続いていて、周りの在校生たちは既に退屈している様子だった。時折漏れる誰かの話し声は、マイクを通して卒業生の名を呼ぶ副校長先生の声に掻き消されていく。露木はその場で小さく座り直して遠くの壇上を眺めていた。1年も過ごしてきたものの、初めて見る顔ばかりが卒業証書を受け取って壇上から降りていく。在校生の前に並ぶ卒業生の父母たちは各々啜り泣く声をあげていた。その感情が露木にも襲ってきたのは、数分後のことだった。 「一条景。」 「はい。」 副校長に名前を呼ばれ、人の頭が絨毯のように敷き詰められた中から彼の頭が伸びる。規則的な動きで彼はゆっくりと壇上に上がった。 その時に露木は寂しさよりも喜びを感じて、少しばかり涙腺が緩んでしまった。周りからは見えないように掌で目尻を覆う。 彼とは出会って1年も経過していない。しかし彼はここで3年間を過ごした。3分の1にも満たない中で自分と出会ったのは奇跡なのではないか。もしあの時、六石棟から聞こえた吹奏楽部の音色につられていなければ、一条と出会うこともなかった。資料準備室が無ければ彼の行為を見ることも、何も知らずに彼を軽蔑することも、一条景の内面を知ることもなかった。 偶然は美化すれば運命に変わる。 岡村と出会ったのも、白河に声をかけられたのも、何もかもが偶然であり、そのどれもが運命とも呼べるものであった。あらゆる偶然が重なり合って複雑に乱れる。彼女はぼんやりと考えながら心の中で呟いた。 (彼と出会えてよかった。) 卒業証書を受け取り、一条は壇上から降りる。次の名前が呼ばれて、また初めて見る顔が壇上へ登る。その繰り返しの作業の中で露木は数十秒だけ満たされた思いだった。
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