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66
短いホームルームを終え、露木は一目散に教室から飛び出した。同級生を掻き分けて足早に1階へ降りていく。靴を履き替えて満開の染井吉野の前に出る。そこにはいつもと違った光景が広がっていた。
いつもの制服に花弁と紅白の帯を胸に留めた3年生たちが、父母と共に写真撮影を行っている。どこからか吹いた春の風に煽られて桜の花弁が散っていく中、皆満面の笑みを浮かべていた。花束を持つ生徒、数人で自撮りをしている生徒、卒業が寂しく涙する生徒、全員が共通してそれまでの3年間を名残惜しく過ごしている。
辺りを見渡したが、一条の姿はない。どこかに紛れていないかと彼女は目を配っていた。
「萌華、早いよ先行くの。」
駆け足で追いついた岡村は短い髪を振りながら、すぐに辺りに目をやる。彼女も露木と同じ結論を出した。
「あれ?一条先輩は?」
「それが見当たらなくて。どこにいるんだろう。」
「もう先行っちゃったんじゃない?」
大勢の生徒たちが校門の方へ進んでいる。校庭へ広がりながら歩いていく3年生の群れの中に、露木は明るい茶髪を見つけた。
焦って再び走り出して卒業したばかりの彼に近付いていく。その距離が縮まって、その表情が目に入った露木は思わず立ち止まってしまった。慌てて追いかけてきた岡村は彼女の背にぶつかって、大袈裟に顔を両手で覆う。
「ちょっと、何故ここで急ブレーキかけるの。よく立ち止まれたね…。」
「ごめん、恵里。先に校門のところで待ってようかなと思って。」
そう言って彼女は伏し目がちに校門へ歩いていく。一条から少し距離を置いて3年生たちの群れから抜け出す。少しして岡村は隣に立って声を潜めた。
「何、声かけないの?」
「うん。だって、ほら。」
そう呟いて振り返る。2人の視線の先、数人のクラスメイトたちの真ん中で彼は子どものように弾けた笑顔を見せていた。とびっきりおかしなことがあったのか、指先で涙を拭いながら笑い合っている。その姿を見て露木は続けた。
「今は私との1年間より、友達との3年間が大切じゃん。だから邪魔したくなくて。」
胸元まで伸びた黒髪を肩にかけ、塀に背を預ける。露木は胸の内にこみ上げる寂しさを押し殺していた。もう明日から彼が学校に来ることはない。そう思う度に心の中にぽっかりと穴が空いていく。しかしいくら寂しがったところで卒業が撤回されることはない。彼が大学生になっても交際は続く。決して別れたわけではない。
それでも彼女は、無邪気にはしゃぐ一条を見てたまらずに涙を零してしまった。
「萌華…。」
最後に焼き付けようとした彼の笑顔が幾つにも重なっていく。必死に涙を拭ったものの、溢れ出る勢いには勝てなかった。
滲む視界の向こうで人混みが動き出す。慌てて両唇を仕舞って涙を堪えた彼女の前に立った一条は、呆れたように笑っていた。彼の周りにいたクラスメイト達が笑みをこぼしながら言う。
「よかったな一条、お前のために泣いてくれる彼女がいてよ。」
「うるせーな。早く親ん所行けよ。」
大袈裟に蹴る素振りを見せるとクラスメイト達は笑いながら悲鳴をあげ、校門の向こうへと走っていった。
「じゃあ私も外で待ってるね。」
後を追いかけるように岡村も走り出す。それを見てため息をついた一条は片手に持った花束を肩にかけて、口端を釣り上げた。
「何泣いてんだよ。」
「だって、だって…先輩いなくなっちゃうから…」
「あのな、別に卒業しても恋人だろ。別れるわけじゃねーんだから。」
「そうですけど、でも…寂しいんです…。」
校舎に背を向けた一条の向こうで、同じように卒業生を恋人にもつ男女が何人もいた。泣きじゃくる者、どうにか堪えて笑顔を浮かべている者、さらには数人の女子生徒たちに背中を押されて卒業する男子生徒に告白をしている者も見受けられる。
そしてそのほとんどが、手に持っていた花束を恋人に授けていた。
少しして一条は再びため息をつく。花束を持っていない方の手を伸ばすと、露木のワイシャツの襟に指を引っ掛けてぐっと手前に引き寄せた。
「ネックレス、してんじゃん。なら寂しくねーだろ。」
デコルテにかかった小さい十字架のネックレス。露木はこれに何度も助けられた。女子生徒からのいじめ、白河に騙された時、そして寂しい夜。これを握って心の中で助けを呼べば彼がやってくる。
しかしもう彼は来ない。
真っ先に自分を守ってくれる存在がいないという不安が新たに押し寄せる。しかし彼女はすぐに思い直した。
「これ、私のお守りですね。」
「そうだよ。俺も同じだからな。」
そう言ってネクタイを緩めると、ワイシャツのボタンを2つ開けた。彼の骨張った細い首に銀色のチェーンが巻かれている。その下には小さい真珠がキラリと光っていた。
「受験の時も役に立ったよ。こんなこと言ったらバチ当たりそうだけどよ、合格祈願のお守りよりもこのネックレスの方が勇気もらった。好きな人が自分を想ってくれているっていう証があったら、何でも出来る気がするよ。」
露木から贈られたクリスマスプレゼントを指先で弾く。小さい真珠は鎖骨に当たって跳ね返る。彼女はそれを見てほっと胸を撫で下ろした。
胸元に下がった想ってくれているという証を握る。常に同じ気持ちで、それは絶えることがない。人間は疑い続けることも信じ続けることもできる生き物だった。そのどちらに身を委ねるかは相手への好意によるのかもしれない。
だからこそ露木は信じ続けることを選んだ。
「大学行っても、他の女の人に現抜かさないでくださいね。」
「お前な、キャバクラじゃねーんだから。あそこ学び舎だぞ。」
「でもほら、そういうサークルもあるじゃないですか。男女の欲望に満ちた集まりとか。」
「地獄みたいだなそれだと。」
「なんかこう、アルコールと欲望が渦巻いているような…」
「それはサークルの課外活動とかだろ。キャンパスの中がいつもアルコールで充満してたらやべーじゃんか。」
2人は話しながらふと視線を絡ませた。簡単に会うことができなくなってしまうにも関わらず、同じタイミングで笑った。いつもと変わらない雰囲気がそこにあった。
もう寂しがるのはやめよう、前を向いて受け入れよう。心の中で彼女は何度もその言葉たちを反芻させた。やがて喉の奥から顔を覗かせる、卒業を祝う言葉を口にしようとした。
その時だった。
「おい、一条!そこにいたのか!」
染井吉野の方から野太い叫び声が近付いてくる。名前を呼ばれた一条だけでなく、露木もその方を見た。びしっとスーツに身を包んだ一条のクラスの担任が鬼気迫る表情で駆けつけてくる。常に白いジャージを身に纏った体育教師の下村竜也は、一条の前にやってくると大きく息を切らしていた。
「何すか、留年?」
「先輩。単位足りてないんですか。」
「いやいや、俺出席日数足りてると思うけど。」
下村はその会話の最中も肩で荒々しく呼吸している。やがて体を起こすと、重々しく口を開いた。
「今、学校に、電話があってな。お母さんが倒れたそうだ。」
それまで辺りに響いていた卒業生達のはしゃぎ声が突然遮断されたようだった。ピアノ線のように張り詰めた緊張感が漂う。一条も露木も咄嗟に黙り込んでしまった。
「病院に運ばれて緊急入院するそうだ。今すぐ江戸川総合病院に行ってくれ。」
露木はようやく違和感に気が付いた。卒業生の周りには友人だけでなく、小洒落たスーツを着た父母が並んでいる。卒業式が始まってから今に至るまで一条の父母はどこにも見られなかった。
思わず彼を見上げる。一条は複雑な表情を浮かべていた。怒りを滲ませたような、何かを失ってしまうことを恐れているような、今にも溢れ出しそうな涙を堪えているような、露木が今までに見たことのない面持ちであった。
やがて一条はすぐさま駆け出した。未だに卒業を祝っている生徒たちを押し退けるように住宅街へ飛び出す。どうしたらいいのか分からなかった彼女も、慌てて彼の後を追った。
校門を抜けて篠崎駅へ走り出す。背後に岡村が追いかけてくる声を浴びながら、一度も振り返らない一条を追いかけていった。
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