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追いつくことができた岡村と3人で電車に乗り込み、船堀駅で降りる。その道中も一条は一切口を開くことはなかった。
脇目も振らず大通り沿いの白い建物に滑り込む。ガラスの自動ドアをくぐると、6階まで吹き抜けになっている高い天井の下、光に照らされた大理石のようなフロアに出る。水色のベンチが受付の前に行儀よく並び、大勢の医師や入院患者が行き交っている。その間を掻き分けて受付に向かった一条は、必要最低限の言葉数で行き先を得た。
あまりにも早足で向かう彼に、2人は追いつくだけで精一杯だった。エスカレーターを駆け上がって3人は4階に到着する。薬品が鼻先を掠める無機質な廊下は薄いベージュが混じっていた。その上を早歩きで颯爽と向かう彼は奥の病室の前で立ち止まった。
「はぁ…こ、ここですか。」
息を切らして彼の隣に立つ。スライド式の白い扉の横に細いネームプレートがあった。
『一条香織』
初めて知る一条の母の名前に、彼女は思わず息を飲む。一条はゆっくりと深呼吸をしてぐしゃぐしゃになった花束を片手に扉を開けた。
目の前に広がった光景は彼女にとってあまりにも異質だった。
短い廊下の向こうには個室のベッドが置かれ、周りを白衣とナース服を着た男女が囲んでいる。その中央で横たわっている女性の腕が微動だにしていないのを見て、余計に胸が張り裂けそうな思いに駆られる。白衣を着た男性が扉の方へ振り返ると、神妙な面持ちで駆け寄ってきた。
「息子さん?」
「はい。あの、母の容態は。」
胸元の名札には田淵淳一と書かれている。しなやかな黒髪を中央で分けて、大きな石のような電子機器を見ながら彼は言う。
「病状は非常に深刻です。今は薬で眠っていますが、自宅で発見された香織さんの口元には血痰がありました。なので胸部X線検査を行ったところ、肺に癌が見つかりました。現在、ステージ4です。」
一条の後ろで会話を聞いていた露木はごくりと唾を飲んだ。田淵の言うその言葉がとてつもなく鋭利に聞こえたからであった。肺に癌、ステージ4。それが一体何を意味するのかは医療に詳しくない彼女たちにも分かっていた。
田淵は露木たちに気が付くと申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「申し訳ないですが、付き添いの方は外でお待ちいただけますか。大事な話なので。」
「あ、ごめんなさい。萌華。出よう。」
返事をせずに彼女たちは病室を後にした。つんと鼻腔を刺す廊下の壁にもたれて、言葉を失ってしまう。あまりにも多い情報量に溺れてしまいそうだった。
しばらくして3人がやって来た道から足音が響く。廊下を抜けてやってきたのは葛城だった。露木と岡村に気が付くと、呼吸を整えてから言う。
「景のおふくろさん、容態は。」
すぐさま答えようとした露木だったが、うまく喉から言葉が出てこなかった。そんな彼女を見て察したのか岡村が代わりに答える。
「肺がんのステージ4って言ってました。今はお医者さんと2人で話し合ってます。」
「そうか…なるほどな。」
少し伸びた髪を搔きあげてため息をつく。それから3人は言葉を交わすことなく、その場に留まった。露木は様々なことを葛城に聞きたかったものの、うまく言葉を紡ぐことができなかった。
ものの数十分ではあったものの、3人にとっては数時間にも感じられる沈黙を裂くように扉が開かれる。田淵は看護婦を数人引き連れて廊下に出ると、3人に頭を下げてから足早に去っていく。何かを話し合っている様子から見て余程忙しいのだろうと彼女は判断した。
箍が外れたように3人は病室に雪崩れ込む。一条はベッドの横でぼんやりと立ち尽くして、奥の窓から差し込む日の光を浴びている。どんな言葉をかけたらいいか分からず、恐る恐る彼に近付いていく。一条の視線の先で透明の呼吸器で顔を覆われた女性が微かに眼を開いている。一条香織は見るからに朦朧としていた。
気を遣って声をかけようとした露木だったが、喉元まで出掛かった言葉は香織の声に遮られた。
「何、しに来たの、あんた。」
低く掠れた声で彼女は息子に問いかける。都会の喧騒に掻き消えてしまいそうなほど小さな声だったが、露木は確かにその言葉に鋭さを感じた。
「何しに来たって、担任から連絡を受けたんだよ。」
彼は怒っているわけでも、臆しているわけでもない声色で答える。すると香織はゆっくりとその視線を彼が手にしていた花束に向けた。
「あんた、何、その花束。」
「昨日卒業式だって言っただろ。」
「ああ、そう…」
ボソッと呟いて香織は視線を逸らした。まるで見たくないものを見ないような、無責任に突き放すような表情を浮かべている。その様子を不自然に思った露木は、その次に信じられない言葉を聞いた。
弱々しいため息をついてゆっくりと首を横に倒す。彼女は視線の先にある窓の外を眺めながら、まるで自然と漏れたように呟いた。
「じゃあ、とっとと、帰んなさいよ。顔も、見たくないんだから。お金なら、あるから来なくて、いいよ。」
「ちょっと香織さん、そんな言い方ないでしょう。」
咄嗟に口を挟んだ葛城だったが、一条親子は何も返さなかった。やがて一条はひしゃげた花束を香織の枕元に置いて、くるりと背を向ける。憔悴しきった彼女は脆い声で息子の背中に言った。
「ちょっと、こんな、汚い花束、置いて行かないでよ。」
何故彼女がここまで実の息子に対して悪態を付くのかは分からなかったが、露木は声をかけることができなかった。
扉の前で一条は立ち止まる。こちらを振り返ることなく、彼は銀の細いパイプのような取っ手を握った。
「うるせーよババア。」
聞いたことのない苛立ちの声。怒りが滲んだ言葉を吐き捨てて扉を開けると、彼はそのまま廊下の方へと消えていった。慌てて彼を追いかけようと身を翻した露木の腕を、葛城がしっかりと掴んでその動きを止めた。
彼は黙り込んだまま首を横に振っている。様々な感情が露木の胸の中で渦巻いていたものの、素直に従うことしかできなかった。それは葛城の表情がそうさせていた。口をつぐんで溢れそうな感情を抑え込んでいる。露木よりも彼のことを分かっているであろう葛城を見て彼女は俯いた。
窓を覆うカーテンが大きく揺れる。その時まで3人は窓が空いていることに気が付かなかった。
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