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帰宅していく生徒たちの群れから外れて、露木と岡村は廊下を左に曲がった。スライド式の扉を数回ノックしてゆっくりと開く。職員室はひんやりするほど冷房が効いており、どこからかコーヒーの香ばしい匂いがした。 「失礼します。京本先生はいらっしゃいますか。」 岡村の澄んだ声が飛んでいく。デスクの上に山積みになった教科書の陰から、顔立ちの整った若い教員が顔をのぞかせた。女性のように艶かしい黒髪を振って、ネクタイを結び直しながら2人の前に立つ。京本大輔は美術を担当しており、その見た目と優しい性格から女子生徒人気が高いと、岡村のメモには書いてあった。 「えっと、露木さんと岡村さんだよね。」 「はい。福祉委員の件で来ました。」 今年度の委員会は5月の初旬から始動するらしく、福祉委員会が開かれる2年B組には同じ委員会の生徒たちが待機している。 初めての委員会ということもあって、初回の雑用は1年生が請け負うルールが定められていた。 京本は職員室の壁に嵌められているコルクボードから、フックに掛けられた鍵を手に取り、それを岡村に渡す。 「じゃあ今日の委員会で使う資料を取ってきてもらおうかな。」 「どこに行けばいいんですか。」 「六石棟の資料準備室。1年生はまだ使ったことないかもしれないけど、1階の廊下の突き当たりを左に曲がったところにあるから。福祉委員会用って書かれたダンボールを教室まで運んでね。ゆっくりでいいから。」 そう言って自分の椅子に戻っていく京本を眺めながら、露木は焦りを感じていた。数日前の出来事が走馬灯のように頭の中に投影される。 しかし岡村はそんなことなど気にすることもなく、そそくさと職員室を出て六石棟への廊下を歩いていく。慌てて彼女の後を追い、2人は家庭科室の前を抜けて廊下の奥へ進んでいった。武芸室が徐々に近付く。わざと岡村を追い越した露木は先に廊下の左奥に目をやった。 「へぇ、ここなんだ。随分奥まってる所にあるんだね。」 どくどくと鼓動が早くなっていく。資料準備室の扉は閉まっている。それでも不安は大きかった。岡村から鍵を奪い取ってしまおうか、そう考えていたものの、彼女は既に扉の鍵穴に差し込んでいる。鍵を右に回すと岡村は不思議そうな表情を浮かべて振り返った。 「あれ?空いてるんだけど。」 そう言ってゆっくりと扉を開く。慌てて岡村の前に立ちはだかろうとした時、露木は部屋の奥に佇む人影を見て動きを止めた。 2つの棚の間で、一条景はカーテンが閉まった窓にもたれたまま2人を見ている。控えめな唇が微かに動いた。 「ん?誰?」 少しだけ解けたネクタイに、スボンから出したワイシャツ。ボタンは2つほど開いていて、彼の細い首筋が見える。明るい茶髪の隙間から覗く彼の目は瞼が重たそうに見えるからか、獲物を冷静に品定めしているように感じた。 露木はごくりと唾を飲む。彼の視線は先に扉を開けた岡村ではなく、露木に向いている。扉がゆっくりと閉まった後、岡村は淡々と言った。 「えっと、福祉委員会の資料を取りに来ました。」 「ああそう。そこの棚にあるよ。」 そう言って右奥の棚に顎の先を向ける。棚の中段に置かれたダンボールの側面にはマッキーペンで福祉委員用と書かれてある。礼を言ってダンボールを取りに行く岡村の後ろについて、露木は何とか一条と目を合わせないようにしていた。 棚からダンボールを運び出し、胸元に抱える岡村と共に資料準備室を後にしようとした時、低く紙やすりで研いだような声がした。 「お前、この間見てただろ。」 鋭いその言葉は確かに露木へ向けられている。思わずどきりとして立ち止まった。鼓動が釣れたばかりの魚のようにびくんと跳ねる。しかし露木は意を決して彼の方を向き、深呼吸をしてから言った。 「一条先輩。どうしてここであんなこと、してたんですか。」 言葉も体も震えている。露木は負けじと彼の目を睨みつけた。 「え、萌華、この人が一条先輩なの?」 「そう。この間、ここで見たの。」 「な、何を?」 不安そうな表情で問いかけてくる岡村に応えられず、思わず黙り込んでしまう。すると一条は噴き出すように笑って茶髪を掻き上げた。柔らかな髪が差し込む橙に滲んでいる。 「セックスだよ。俺、ここでしてたの。」 ダンボールを抱えたまま岡村は言葉を失った。まるでその様子を面白がるように一条は微笑して、ゆっくりと窓際から離れる。露木は言葉を止められないように、震える拳を強く握り込みながら言った。 「何故学校でするんですか。おかしいじゃないですか。」 やめなよ、と岡村の小さな声がするも、露木は引かなかった。 一条の不敵な笑みは消えなかった。ゆっくりと近付くと体を翻し、扉に勢いよく背中を預ける。派手な音が鳴って2人は肩を跳ねさせた。 露木の隣に寄り掛かって、一条は覗き込むようにしながら言った。 「性教育してんだ。学校で学ぶもんだろ?そういうのは。」 心臓を握るような低い声が資料準備室に溶けていく。微かにシトラスの香水が鼻を掠めた。 すると一条は突然身を翻して露木の前に立つと、彼女の手首を握って扉に押し付けた。優しい握力だが妖しく微笑んだままの一条の迫力に、思わず露木は目を見開く。彼は眉尻を下げながら笑った。 「見てたってことは興味あんだろ?教育してやるよ。」 「ちょっと…!」 無理にこじ開けるように岡村はダンボールを2人の間に押し込む。弾かれた一条は大人しく露木の前から離れると、ポケットに手を入れたまま2人を眺めていた。 「行こう、萌華。」 ダンボールを片手と顎で支えながら扉を開けると、六石棟の廊下を照らす明かりが差し込む。先に部屋から出た岡村に続いて露木も資料準備室から這い出た。 扉の前で振り返る。一条は首を傾げて片方の眉を吊り上げている。腹の奥から様々な言葉が逆流していたが、露木は一言だけを搾り取った。 「最低。」 2人は一度も振り返ることなく六石棟を後にした。何かを知らせるチャイムが寂しく鳴り響いていた。
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